「ほうれん草を育てながら哲学してみた」第12話〜世界は遅さでできている〜
ほうれん草が育つプロセスにおいて、「土から芽を出す」というような変化は非常にわかりやすくて面白いのだが、その後は本当に少しずつ大きくなってゆくので、ちょっと退屈な気分になってくる。
ついついその「生長の遅さ」にイライラしそうにもなるが、実はその「遅さ」こそが重要なのである。
このシリーズの第6話で、「生長が遅いほど味わい深い人間になる」というようなことを書いた。今回はさらに調子に乗って、「遅さこそ世界の本質だ」ということを書いてみたいと思う。
「遅さ」について僕の見かたが変わったのは、僕の友人の子どもの言葉がきっかけだった。
当時3歳くらいだったその男の子は、大きな木にしがみついて、「僕この木好きやねん」と言った。そして、「どんぐりを土に埋めたら、これ生えてくるねんで」と教えてくれた。
「ほ〜。でも、ものすごい時間かかるで〜」と僕が笑いながら答えると、その男の子は、平気でこう言ったのである。
「時間かかってもいいねん」
僕はそれを聞いて、はっとするところがあった。
言われてみれば、なぜ「時間がかかるのはよくない」と僕は思っているんだろう。それはもしかすると、スピード命の産業社会のイデオロギーに汚染されているだけではないのか?
だって、何もかもが早い方がよいのであれば、人間は生まれた瞬間に死んだ方がよいではないか。長生きするということは「死ぬのが遅い」ということでもある。
面白いことに哲学者のベルクソンは、時間の本質は「遅延」であると言う。
時間とは、全てが一挙に与えられることへの抵抗だ。
たとえば、ベンヤミンが提示した「メシア的視点」をイメージしてみよう。世界の誕生から全ての歴史を知るメシア(神)の視点からすれば、人類の歴史などほんの一瞬にすぎない。無限とも思われるような神の時間間隔からすれば、人間の一生などは「一瞬で全てが与えられている」ようなものだろう。
だが、もし本当に神様がいて、全てを神様が決定しているのならば、もはや時間は必要ない。全ては神によって確定しているのだから、そこに遅延が存在する余地などないだろう。
だが実際には遅延が存在し、それが時間として人間にさまざまなことを考えさせ、それぞれの人生を生きさせている。それはなぜか。ベルクソンの考え方はこうだ。
つまり、ここでベルクソンは「全てが確定しているわけではない」と言い、その証拠を「時間の実在」に見出しているのである。だからひとことで言ってしまえば、「遅延こそが生」なのである。
そしてベルクソンは、この「遅延=時間」が、人間の「心」を生み出したとさえ言うのだ。確かに全てが確定しているのならば、とまどい、逡巡する「心」は無用である。そこにベルクソンは、条件反射的に行動する虫と、人間との違いを見るのである(虫に本当に心がないかどうかは、僕にはわからないけれども)。
ほうれん草が育つのに時間がかかるということは、ほうれん草が生きているということであり、僕が生きているということである。それは同時に、ほうれん草が育つかどうかはわからない、ということを教えている。だからこそ、ちゃんと育った時に僕らは喜びを感じることができる。その喜びを与えてくれているものこそ、遅延であり、時間である。
世界は遅さでできている。
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