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「ゆっくりでなければならない」ものがある

水面を手で勢いよく叩くと、水しぶきが上がる。

そのシーンを録画して、スローモーションで再生すれば、全く同じ水しぶきが上がるシーンが、スローで再生されるだろう。

だが、それと全く同じ動きを、ゆーっくり、ゆーっくりと実際にやってみると、当然ながら、水しぶきは上がらない。

つまり、

「<速い動きのスロー再生>で<遅い動き>を再現することはできない」。

ゆったりしたテンポのバラードの曲を、速いテンポで演奏すると、全く別の曲になってしまう。

ある曲を録音して、早送りやスロー再生で聴くと、音程まで変わってしまう。

このように「速度」は、ある意味で絶対的に重要な要素である。

何かと速さが求められる時代だけれど、バラードのテンポひとつとっても、「ゆっくりでなければならない」ものがあることは明らかだろう。

にもかかわらず、僕らはその明らかなことを、けっこう無視しながら生活している。

あるバンドの、50分の音楽CDがあったとする。

そのバンドのファンであるAさんは、50分かけてそのアルバムを1回聴き終えた。

同じバンドのファンであるBさんは、そのアルバムを3倍速の早送りで聴いて、50分の間に3回聴いた。

翌日その二人が会ったとき、Aさんが「私、きのうアルバム1回聴いたよ!」と言い、Bさんは「え、たった1回?私は3回聴いたよ!」と言ったとする。

これをもって、「AさんよりもBさんの方がより熱心なファンだ」と結論づけようとしたら、誰だって「おいおい!」となるだろう。

しかしその「数字」しか見なかったならば、「さすがはBさん、本当に好きなんですね!」ということになってしまいがちなのだ。

「時間」というものを数値化してしまうことによって、普通に考えればありえないような、無茶なロジックが成立してしまう。

「1回より3回の方が上」という、実に単純な話である。

このとき、その「実質」は考慮されない。

思うに、人生にも、それを味わうにふさわしい「速度」というものがあるような気がする。

もしそういうものがあるのだとしたら、おそらく現代の僕らはテンポを速くしすぎて、それを充分に味わうことができていない。

実に味わい深いスローバラードの名曲を、早送りで聴く愚を犯しているのではないだろうか。

経済だってそうで、会社の利益を増やすのに躍起になって、自然の生産力をはるかに上回る速さで自然を収奪し、破壊してしまっている。

そして売り上げという「数字」を見て歓喜する。

そういうことを実に無邪気にやっていたりする。

しかし、ものごとにはそれぞれ「ちょうどよい速さ」というのがある。

同じ行為であっても、その速さを変えるだけで、善悪が逆転してしまうことだってある。

「本当に今のままでいいのか?」

というような切実な問いは、一度立ち止まってみなければ、たぶん考えることすらできない。

数字そのものに意味はない。

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