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「そう思ったら、そうする」

「そう思ったら、そうする」

この単純なことが、実はなかなかできない。

電車でお年寄りが乗ってきたら、「席を譲ろう」と思う。

しかしその刹那、

「年寄り扱いするなと怒られたらどうしよう」

「いい人ぶりやがってと周りの人に思われたらいやだなあ」

「自分が譲る前に他の人が譲るんじゃないか」

「よく見たらけっこう若いような……」

などという思いが湧いてきて、結局動くことができず、席に留まったままになる。

何かが「そこに留まっている」とき、二つの力が均衡を保っている。

人間が大地に立っているということは、人間にかかる重力と、それを支える大地の反発力が、均衡を保っているということである。

席を譲れなかったこの人の場合、「席を譲ろう」という思いと、「席を譲り難い」という思いが均衡を保ち、結局「席に留まる」ことになった、と言える。

こうした「均衡」は人生のあらゆる面において発生する。

「歌手になりたい」という思いは、「なれるわけがない」という思いと均衡を保ち、結果、現状を維持することになる。しかしその思いがあまりに強い場合、その均衡は崩れるし、あるいは「なれるわけがない」という観念を抱かない場合、そもそも均衡は発生しないだろう。さらには、自分の意志に関係なく、あまりに大きな流れに巻き込まれることによって「均衡のとりようがない」場合もある。

太陽系の惑星が太陽の周りを回り続けているのも、ひとつの均衡の形である。そしてひとつの均衡が崩れれば、やがてまた別の均衡へと向かう。

人間の心のありようにも、そういうところがある気がする。人間が変わるということは、この均衡のありようが変わるということである。

もしかすると、「思う」ということ自体が、ひとつの「均衡の崩壊」なのかもしれない。だから、何かを「思う」とき、それと均衡を保とうとするような、別の「思い」がほぼ同時に発生する。そのことが、「思い」を行為に移すことを阻害する。

これにはいい面も悪い面もあるだろう。席を譲れなかった例のように、いい行為を阻害する場合もあれば、逆に悪い行為を阻害してくれる場合もある。良くも悪くも、均衡を保とうとする力が発生する。しかし人間がよりよく生きていこうとするとき、この均衡を破っていかなければならない場合がある。

「そう思ったら、そうする」

この単純なことが、自分はどれだけできているだろうか。僕の場合はがっかりするほどできていないけれど、もしも完全に実践できたなら、それを悟りというのではないか。

晩年の親鸞は、「悟りとは自ずから然り」と考えていたようだが、それは要するに「そう思う」ことと「そうする」ことが、もはや一体となっている状態のことだろう。

僕らは、煩悩を欲望と同じように捉えるけれども、「そう思う」ことと「そうする」ことの間を隔てるカウンターとしての「思い」もまた、ひとつの煩悩なのかもしれない。もちろんそれも、何らかの欲望と結びついているといえなくもないけれど。

「そう思ったら、そうする」

この単純なことを頭の隅っこに置いておくことは、自分がどのような均衡の中に生きているのかを知る手掛かりになる。

「そう思っても、そうできない」自分を発見することは、「そうする」ことを阻害する観念を発見することでもある。

そのような観念から解放されて、今よりはもうちょっと「スッ」と生きられるようになりたいものである。

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