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師を持つことの大切さ

「都会で暮らしながら、どうやって自然との関係を結び直していくのか」

これがいま、人々の大きな関心になっている。

都会の特徴である均質な時空は、人間の五感を鈍らせ、生きる上での大切な学びを奪う。

何より、人工的な空間が当たり前になると、「全ては人間によってコントロールできる」という幻想が思考を支配するようになる。そのうちに、不慮の事態に出会ったときに対応できない精神と身体ができあがる。

「自然での学びを回復しなければならない」という思いを抱きつつも、誰もがすぐに自然豊かな田舎に移住できるわけではない。そのような中で、さまざまな取り組みが試みられてもいる。

都会と田舎の二拠点生活。週末移住。農産物を通した地方とのつながり。都市と地方の関係人口を増やす「おてつたび」のような画期的なサービスも生まれてきた。

他にも方法はいくらでもあるけれど、僕がふと思ったのは、ちょっと意外に思われるかもしれないけれど、「師」を持つことの大切さである。

思えば、師とは自然のようなものではないだろうか。

自分が師と定めた人の言うことは、とりあえず受け入れるしかない。たとえその時に自分が納得いかなくても、である。もちろんあまりに非倫理的なら問題だが(というかそのような人を師とはしないだろう)、なにはともあれ一度は全面的に受け入れるべきなのである。

なぜなら、自分には見えない景色を見ているからこそ「師」なのであり、その良し悪しを自分の居場所から判断することなどできないからである。

そして「なぜ師はそう言ったのか」、「なぜそのような行動をしたのか」を考える。

すぐに答えがわかるとは限らないし、もしかすると一生答えが出ないかもしれない。だが、そのプロセスの中で、何かしらの気づきを得る。

この、「まずは受け入れるしかない」という存在は、実に自然的だと僕は思う。

もちろん師も人間である以上、間違いはあるだろうし、自分とは根本的に方向性が違ったということもあるだろう。また、人間は自然に働きかけて都合のよい環境に変えてゆくけれど、弟子が師を変えようとすることはまずない。

だが、そうした自然との違いさえもまるごと受け入れてしまえば、それはなお、自然的な関係に近づいてゆく。

なにより、「自分自身を絶対的に正しい位置に置く」ということがなくなる。

この一点をだけを取っても、よき師を持つということはいかにありがたいことかと思う。

とはいえ、本当によき師と出会えるかどうかは、それこそ偶然的、自然的な要素によるところが大きいかもしれない。だが一方で「われ以外みな師」という考え方もある。自然がそうであるように、他人は常に何かを教えてくれている。

それらはもちろん自然ではないのだけれど、一方で、一人ひとりの人間は例外なく「内なる自然」を内包した自然的存在でもある。そうした混沌を抱えながら、さも整然と生きているのが人間である。

僕の思う「よき師」というのは、そうした「内なる自然」まで見通した上で、人間と自然のことをよく知っている人のことかもしれない。そういう人はどこまでもやさしく、また厳しい一面を持っている。

地方に出かけて自然を発見するのもいいけれど、都会の中で「よき師」を発見するのも悪くない。それどころか、もし地方にでかけて、自然だけでなく「よき師」までそこで発見してしまったら、そろそろ都会の生活を脱ぎ捨てる時なのかもしれない。

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