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コミュニティとは「生きる文脈が見える世界」のことである

「タモリ式記憶術」というのがある。これはタモリが開発したというのではなく、タモリがテレビで紹介したから有名になった、というだけの話だと思うのだが、要するに記憶のコツみたいなものだ。

それは、ものごとをそのまま覚えようとするのではなく、ひとつの物語に当てはめて記憶する、というものである。

人間はバラバラで無意味なものを記憶するのは得意ではないけれど、そこに意味が付与されると、なぜか覚えておくことができる。つまりものごとを文脈の中で捉える、ということである。

そして人間自身も、つくづく文脈の中で生きている。

自分が生まれてきたのも、それまでの先祖の歴史という文脈の中でだし、両親の出会いという文脈ありきである。自分がいまやっていることを過去の文脈なしに語ることはできないし、それに意味を持たせるのもまた文脈である。

言葉の意味などはまさにその典型で、「お前はほんまにアホやなあ」という言葉も、それが発せられる文脈によって、相手を見下している場合もあれば、愛情を表現している場合もある。特に大阪では後者の場合が多く、褒め言葉としてよく使われる。

人間の存在を文脈抜きに語ることはできないし、存在の意味は文脈の中にしかない。

『おくりびと』という有名な映画があるが、あの映画のテーマは、「すべての人は、必ず誰かに愛された人である」ということだったのだと思う。それは、誰もが文脈の中で生まれ、文脈の中で死んでいく、ということである。だから、あらゆる人の死は丁重に扱われなければならない。

そして僕たちが生きる地域にも文脈があり、いわゆるグローバル経済がなぜいけないかというと、それはこの文脈を無視するからだ。

地球の裏側の地域の生活や、そこで暮らす一人ひとりの生きる文脈を、グローバル経済はデジタルな数字としてしか捉えない。その行為の結果を貨幣換算したときにプラスになればそれでよいのであって、そのときに人々の文脈は関係がない。

いまコミュニティの重要性があらゆるところで見直されているが、それはつまり、「人々の生きる文脈が見える世界」のことなのだと思う。だからそういうことを無視した地域主権を言っても意味がないし、それを無視した民主主義は機能不全に陥らざるを得ない。

人間の自由も、人間の経済活動も、この文脈の中に埋め戻さなければ、人間は自分自身の存在の意味を、見失うほかないだろう。


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