時間は不可逆的であるにもかかわらず、過去も未来も変えることができる
文章を書いていて、楽しい時と、楽しくない時がある。
楽しく書ける時は、その文脈の中に没入して、それこそ我を忘れ、時間を忘れ、ワクワクしながら書いている。
しかし楽しく書けない時というのは、全然没入できずに、すぐに集中力が切れてしまうし、全然ワクワクしない。
そこにはいろんな要因があるけれども、おそらく一番大きいのは、「今の自分の考え(あるいはイメージのようなもの)」を書いているかどうか、ということのような気がする。
これができている時は、ワクワクしながら書いている。できていない時は、げんなりしながら書いていることが多い。
「〝今の自分の考え〟以外を書くことなんてあるの?」と思われる方もいるかもしれないが、実はこれがけっこうあるのだ。
たとえば、「今の」自分の考えではなく、「過去の」自分の考えを書こうとしていることがある。
これにはいろんなケースがあるが、たとえば何かひとつのテーマについて書く時に、「以前それについていいことを考えたことがあったはずだけど、どんなことを考えてたっけ……?」と、思い出して書こうとする場合がある。
この時、あくまで暫定的にではあるが、自分の外部に正解を求めていることになる。
その外部の「正解」も自分の考えに違いないだろうが、それをそのままなぞろうとするならば、それは「今の自分」の考えではない。「過去の自分」の考えである。
過去の自分は、今の自分にとって、一面において他者である。その他者の考えに答えを見出そうとすると、それはある意味で「自分で書くこと」ではなくなってしまうのだ。だから、自分にとって面白くなくなる。
そしてもうひとつ、「未来の自分の考え」を書こうとしている場合もある。これは要するに、「自分はとても素晴らしい文章を書けるはずだ!」という期待のようなものである。ここでも、「今の自分」にとっての外部に正解を求めている。これも辛い。
ワクワクしながら文章を書くためには、この「過去の自分」と「未来の自分」から解放されなければならない。そして正解をそのような外部に求めるのではなく、「今の自分が正解を創造しているのだ」という感覚を持つことが大事になる。
そもそも文章に正解・不正解などないが、要するに自分が「面白い」と思えるかどうか、ということだろう。もちろん事務書類のような文章はこの限りではないけれども。
とにかく自分の外部に正解を求めると苦しい。そうすると正解はその一つだけになってしまい、他は全て間違いということになりかねない。もちろんそこからインスピレーションを受けることはあるけれど、「それと同じものを書かなければならない」となったら、それは「死んだ文章」ということになる。
よく、「人生に正解はないよ」ということを言うけれども、これを「どれを選んでも、その選んだものが正解だよ」と捉えるのか、それとも文字通り「正解は存在しないのだ」と考えるのかは、大きな違いである。
既存の正解が「ない」のだとすれば、それはこれから生まれてくるものの中にしかない。これらは「選択」と「創造」の違いである。
ベルクソンは、こうしたことについて面白い表現をしている。
「デッサンを描き彩色する行為は、すでに描かれ彩色された姿のくだけた細片を寄せあつめる行為とはなんの関係もない」(『創造的進化』)
既存のものを集めて組み立てることと、自ら新しく何かを生み出す行為は、全く別のものだと言うのである。
だが一方でよく言われるように、「アイデアとは既存のものの組み合わせにすぎない」。これもその通りだろう。とすると大事なのは、既存の「正解」のようなものがあると思わない、ということではないだろうか。
そうではなく、正解はいま自分が創造しているものの中にある。それを「紡ぎ出す」ことが創作のプロセスなのであって、それは既存の「正解」を再現することではない。この「紡ぎ出す」というプロセスの中に自分がいるかどうかが、文章を書くときのワクワク感とつながっているような気がする。
これはたぶん人生においても同じことで、既存の正解をなぞろうとすると、日々はとたんにつまらなくなる。正解があるということは、間違いがあるということだからだ。
そうではなく、自分の日々の生活の中で、新たな正解を紡ぎ出すこと。ここで「正解」という言葉を使うのが適当ではないことはわかっているけれど、要するに自分が「よし」と思える時間を瞬間瞬間に創造していくこと、そこにワクワクできる時間があるような気がする。
ただ、書くことと生きることには決定的な違いがある。それは、「文章は書き直せる」ということである。なんなら全部なかったことにして、ゼロからやり直してもいい。
だが人生はそうはいかない。ゼロから生き直すことはできない。でも、だからこそ、人生はドラマチックなのだと思う。
例えばひとつの小説作品において、前半はとても読むに堪えない文章だったのが、後半になって突然きらびやかな文体に変化する、ということはない。創作の過程でもしそういうことがあったとしても、それは発表の過程で統一されるはずである。もちろん、後半のきらびやかな文体の作品として。
しかしリアルな人生においては「なんでそうなった?」というような展開がある。あの頃に帰れるなら帰りたい……という思いを成就させない不可逆性が、このリアルな人生のルールである。
文章の中では、過去と未来は併存している。そこに作者あるいは読者という主体が登場し、現在という時間を投げ込む。それはひとつの創造である。
しかし現実の生には現在しかない。過去も未来も、現在において創造された過去であり、未来である。この意味において、時間は可逆的である。二度と振り返りたくなかった過去が、自分の人生にとってかけがえのない過去に変わることがある。
矛盾するようだが、時間は不可逆的であるにもかかわらず、過去も未来も変えることができる。それは現在において、である。
この「現在=今」という位置において文章を書けるかどうか。これがワクワクするかどうかの決め手なのだと思う。そこから全ては生まれる。それは生きることについても同じだと思う。
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