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人生にレフ板を。

雑誌『かがり火』で連載させてもらっている対談「そんな生き方あったんや!」

取材時の写真の撮影は、都合のつく限り写真家の井口康弘氏にお願いしている。

対談は喫茶店でやることが多いのだが、そこでの撮影の際に彼がよく使うのが、「レフ板」と呼ばれる光を反射させるシートのようなものである。

やはり光の当たり方によって、被写体の印象はずいぶん変わってくるのだろう。

ちなみに「ライティング」と聞いて僕がいつも思い出すのは、「真っ白な美肌」で有名だった鈴木その子さんである(笑)。

井口氏がレフ板を使うのも、被写体自体を明るく照らして見栄えを良くするためだろうと思っていた僕は、ある撮影の際に聞いてみたことがある。

「このレフ板があるのとないのとでは全然違うの?」

「そうですね。やっぱり目に光が入りますから」

目に光が入る——。

その言葉が、僕にはとても新鮮に聞こえた。

「ただ単に肌を綺麗に見せるためじゃないんや」

「うん、やっぱり目が大事なんですよね」

井口氏曰く、目に光が入ると、表情に力が出てくるらしい。

言われてみれば、人間がイキイキしている状態というのは、「目が輝いている」とか、「目をキラキラさせながら……」とか、「目に光が入っている状態」として表現されることが多い。

とはいえ、それはその人が物理的に「眼球から光を発している」わけではないだろう。もしそうだったら、イキイキしている人は、真っ暗闇でも照明器具が不要、ということになる(笑)。

では、眼球から光を発するわけではなく「目が輝いている」というのは、一体どういうことなのだろう。

それは、その人が「光を見ている」状態を表現しているのではないだろうか。

「光を見ている」ということは、その人の目に光が映っている、ということである。

つまり、その人の目に宿る「光」というのは、その人が内側から発しているものではなく、その人が捉えた外部のもの、ということになる。

明るい日差しを見る人の目には、その日差しの光が宿るし、暗闇の中で提灯を眺める人の目には、その提灯の光が宿る。逆に言えば、その日差しや灯りから目をそらして暗闇だけを見つめていれば、その人の目に光が宿ることもない。

これは物理的な話だけれど、心理的な話に置き換えても成立するのではないだろうか。

つまり、希望という「光」に目を向ける人の目は輝くけれども、逆に「希望」から目を逸らし続けている間は、その人の目が輝くことはない。

……こういうことを書くと、「だからいつでも希望に目を向けて、目を輝かせていよう!」という話と思われるかもしれないけれど、そんな風に「いつでもイキイキしている人」と、僕はそんなに仲良くなれる気がしない(笑)。

1年のうちに春夏秋冬という季節があるように、人生にもイキイキする季節があったり、ゲンナリする季節があったりしていいのだ。

希望に目を輝かせる時期があっていいし、絶望の深淵を覗き込むような経験があってもいい。

そういう季節の移り変わりが、人間に深みと味わいを与えてくれる。

ただ、絶望の深淵を覗き込んだ時に、自分の人生全体を絶望に浸してしまったような気持ちになると苦しい。そんな時、人は「季節は巡る」ということをつい忘れてしまう。

「光=希望」に目を向ける時に人がイキイキするのだとしたら、イキイキするのも、ゲンナリするのも、「どこに目を向けるのか」次第、ということになる。単に「それだけのこと」だと言ってもいい。

イキイキしてるとか、ゲンナリしてるとか、そういうその時の「状態」を、その人の人間性全体に還元してはいけない。ここまで書いてきたように、「いまどの方向を向いているか」ということにすぎないのかもしれないのだから。それは、目を輝かせている人が、決して眼球から光を発しているわけではないのと同じことである。

絶望を覗き込んだまま光を見失いそうになった時のために、僕たちは自分なりの「レフ板」を用意しておくといいのかもしれない。

それは気の置けない仲間の存在かもしれないし、食べるだけで幸せな気持ちになれるスイーツかもしれない。ちょっと先にある旅行の予定かもしれないし、無条件に肯定してくれる家族の存在かもしれない。その人が信じる宗教がレフ板の役割を果たすこともあるだろう。

スローガン風に言えば、「人生にレフ板を」。

それさえあれば、ちょっとは安心して絶望と向き合えるのである。

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