見出し画像

今だからこそ記したい 黒石寺蘇民祭① 生と死/再生を体験する祭

黒石寺蘇民祭とは何か?
過去5回参加した経験から感じたことは、「生と死・再生」を体験するお祭りであるということだ。本来的には蘇民将来信仰の「蘇民」なのだが、その名の通り「民が(一度死んで)蘇る」祭という要素がある。

祭りの前一週間は精進をし、身体の内側を清めるために努め、水垢離で身体の外側も清め、柴燈木登り(ひたきのぼり)では煙を吸い込み、涙と鼻水を流して呼吸器系を清める。2月の岩手は寒い。一番寒かった時はマイナス12℃だった。極寒の中でふんどし一丁で川の水を浴びると、唇が震え出し生存本能のスイッチが入るかのように熱が湧き上がってくる。声を出さずにはいられなくなり、「ジャッソ!ジョヤサ!」と叫ぶようになる。

柴燈木登りは熱さもさることながら、煙がキツい。煙を吸って咳き込み、涙目になる。しかし、その中で勇ましく「ジャッソー」と男らしさを示す。初めは理解できなかったが、何度も見ていると、本当に強い男とは誰なのかが分かってくる。漢が見える。

そしてこの時に行う「祓い」もまた凄い。火がついた適当な大きさの木をタイミング良く抜き取り、「お〜〜!!」と言いながら、地を這うように棒をゆっくりと振る。そして気合いが必要だ。最後に門番のような方がおり、その方が気合いが足りないと判断するとやり直しとなる。

地を這うように、祓う。鎮魂の儀式。

途中で行う鬼子登りや別当登りは言葉では表現しがたいほど奥深く、異様な雰囲気が漂う。必見の儀式。

こうした一連の禊の儀式を終えて、蘇民袋争奪戦が行われる。境内でのセミの煽りから始まり、蘇民袋が投げ込まれると小間木の争奪が始まる。人間の欲望が露わになる。まるで本気のおしくらまんじゅうのような状態。

そこを出てからはスクラムを組んで1時間以上蘇民袋を奪い合いながら移動する。中に入るとキツいし体力を消耗するが、一方で円の外側に出てくると意外とやることがなくて寒くなる。これはジレンマだ。しかし、チーム戦が必要だからこそ、本当に蘇民袋を取りに行くことができる。

最後に蘇民袋を取るには、「あばら折れても大丈夫」という覚悟が必要だ。おしくらまんじゅうの中の最下層になれるかどうかが問われる。自分にその資格があるのか、それを本当にできるのか、考えさせられる。

取り主を決める世話人の眼力も凄い。どうやって判定しているのか、熟練の技が必要だ。

これらの体験を通して、逃げたくなったり手を抜きたくなる自分と向き合うことがある。(馬鹿か?と思い始めたらキリがない)しかし、それを乗り越えることで、戦いを終えて風呂に入り、仮眠を取り、夕方には一週間ぶりの肉となる焼き肉を食べ、その後ホテルで目が覚める。その時に「生まれ変わった」「脱皮した」「新しい自分になった」という感覚が確かにあった。エネルギーが満ちてくる。

自宅に帰ると、妻から「学氏、目がギラギラして眩しい」と言われたこともある。

祭当日の非日常性であれば、同じくらいのインパクトがあるものもあるが、他のお祭りとの一番の違いは「精進」にある気がする。食べる物を意識して分けていく、動物性タンパクを取らないことで食べても食べても空腹に近い感じ続き覚醒状態になる感じがある。これらをすることで一週間ずっといやがおうにもお祭りを意識することなる。本来の禊の意味もさる事ながら、実際に地域でお祭りの準備をしていなくても、離れていても行動の変容と意識の変化で身体が祭モードに同期していく凄い仕掛けだ。

続く

※令和6年度の黒石寺蘇民祭は2月17日18時より始まります


この記事が参加している募集

お祭りレポート

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?