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令和6年 黒石寺蘇民祭 体験記

早いもので黒石寺蘇民祭から1ヶ月以上が経ち、本格的な春が始まろうとしている。しかし、あの日の一体感と熱狂はまだ残っていて、本当に祭りが終わりを迎えたことを信じられない気持ちでいる。記憶が風化してしまう前に、黒石寺蘇民祭の参加体験記として書き留めておきたい。

5年振りの黒石寺蘇民祭に参加して

令和6年2月17日、岩手県奥州市で行われた黒石寺蘇民祭に参加した。
最後まで祭と向き合い、「やり切った。自信を掴んだ」経験だった。

“ラスト”が宣言された黒石寺蘇民祭で、私はシンプルに取主を目指そうと思った。12月の終幕宣言以来色々なことを考えたが、それが祭りを継承してきてくれたことに対する感謝と恩返しとして一番誠実なあり方だと思ったから。そしてその過程を思い切り楽しもうと思った。

蘇民祭に参加するにあたり、一週間の精進潔斎から始まりウォーキングなど体力づくり身体の準備、そして黒石寺蘇民祭に関しての過去の想いなどをnoteを綴るという気持ちの準備も含めて、祭りに臨んだ。

全国から集まった参加者300人、報道陣150人、観覧者も合わせると数千の人がいたのだと思う。異様な熱気と一体感に包まれていた。
目指していた取主にはなれなかったけど、最後まで諦めず蘇民祭と向き合い続け、やり切った。争奪戦が終わった直後は一体感と熱狂に包まれながら、天を仰いで思わず涙した。最初から最後まで渦の中心におり蘇民袋をほぼずっと触り続けていて、チャンスを伺いながら一歩及ばずだった。でもトップ10には入った自信があり、証となる空札(からふだ)を噛ませてもらったのは本当に嬉しかった。

最後の黒石寺蘇民祭を時系列で振り返る


令和6年 蘇民祭のスケジュール(当日黒石寺で配られるチラシ)

令和6年の蘇民祭は18時から23時までの短縮スケジュールで行われた。本来は旧暦1月7日の22時〜翌朝7時頃までゆったりと行われるお祭りだったので、5時間の短縮版だと「え、もう終わり?」という感覚があった。
①夏参り②別当登 ③鬼子登 ④蘇民袋争奪戦
例年だと、裸参りの後に火焚き登りが来る。参加者側の目線からするとこれこそが蘇民祭の真髄とも言える一番盛り上がるパートでもあるので、なかったのは勿体無いという声も上がっていた。

黒石寺に到着、祭りの準備が始まる

祭の前。小屋に着くと黒石寺蘇民祭青年部の方々が準備してくれたマツリズムの看板が置いてある。角燈に願い事の筆を入れて完成させる。事業継続、平和と愛情、自己超越、感謝などを候補にずっと迷っていたが、蘇民祭に対して最後までベストを尽くすという意味で「蘇民祭愛」とした。
小屋で全国から集まる久々に会う人たちと再会できるのは嬉しかった。 驚きだったのは、「やあ大原くん!」というノリで大学からの友人が小屋に入ってきたことだった。結局彼の友人2人も共に最後まで行動した。5年振りで下帯の締め方も忘れかけていたので手伝ってもらい、祭りに臨んだ。

夏参りで爽快感と一体感に包まれる

水垢離の様子が朝日新聞デジタルのトップ画像として切り抜かれたのは光栄でしたhttps://www.asahi.com/articles/ASS2J5H2BS29ULUC00P.html

午後6時の気温は気温3℃くらい。
「ジャッソ!!」「ジョヤサ!!」の掛け声のコールアンドレスポンスが始まると、いよいよ来たか!とボルテージが上がってくる。行列に加わり、裸の男たちとお寺の本堂に溜まって「オーーーーーーーーイ!」と声を荒げまくるのは異様で物凄い一体感だ。
そして本堂の裏の道を通り過ぎ、いよいよ山内川へ。「邪正、蘇民将来!」と叫びながら皆が思い思いに水垢離をする。自分も世話人の方に角燈を預け、水を掬い上げて、肩口に落とす。冷たい。くーっ、本当に気持ちがいい!!
夏参りは川の水で身を清める禊の行為なのだが、カメラマンやギャラリーを前にすると「俺を見ろ〜〜〜」とばかり、思わず気合いが入ってしまう。
自分も過去上手い人の身体の動きを研究したりと修練を続けた。一周目は久々でうまく身体が動かなかったけれど、二周目・三周目はピタッとハマって最後「蘇民将来、ダァー!」と会心の咆哮ができた。

地元の方が1日かけて準備してくれた薬湯(やくとう)を飲む。とろみのある舌触り。

夏参りを終えて小屋に帰ってきたあとは、かなり身体が冷えていたこともあり、蘇民食堂でご飯を食べたり、薬湯(やくとう)を飲んであたたまったりした。こうしたゆったりとした地元の方との交流の時間が蘇民祭の醍醐味でもある。

最後まで絶対諦めなかった蘇民袋争奪戦

蘇民袋争奪戦のクライマックス

いよいよ始まる争奪戦。今回は始まって早々に蘇民袋にありつくことができたので、そこからの1時間粘り切ってずっと最後まで触っていた。途中何度か手を離しそうになったけど「ここは絶対諦めちゃいけない」と思った。ただこれは気持ちだけじゃ難しい、技術もいる。いかに脱力をしながら、乳酸を溜めずに、握り続けられるかの勝負でもある。数分に一回右手と左手を入れ替えながら、そしてギュッと掴まなくてもいいように袋の中に手を入れてしまう作戦を選んだ。その間、床に落ちている小間木を足袋の人差し指と親指に挟んで、余っている方の手に移動させ、下帯の中に入れた。蘇民袋から小間木を取り出して、花咲か爺さんのように「投げる」立場にもなれた。
蘇民袋争奪戦も短縮ルートで、階段を降りて右側普段であれば火焚き登りのところで終わりとなった。一旦階段から落ちたところで中断している。 人が重なり合って下敷きになるような形になってしまい、事故につながってしまうんじゃないかという懸念もあった。「絶対事故出すんじゃねーぞ!!」という怒号が飛び交い、この伝統の祭りの最後を汚さないんだという決意に溢れていた。
取主は青年部長の菊地敏明さん。納得だった。 失神してしまうじゃないかというくらいの圧に耐えながらでないと絶対にそこに辿り着けないから、尊敬する。そして、何よりこの儀式を事故なくきちんと終わらせようというみなさんの強さ優しさ温かさを感じた。
争奪戦が終わって拍手が湧き上がったあとは、最後まで頑張れたと自分を讃える気持ちと、これが最後なのかという寂しさが湧いてきて、空を見上げながら感極まって涙が出てきてしまった。

祭の片付けとその後のメディアの賑わい

蘇民祭翌日 黒石寺での小屋の片付けの様子

翌朝、密着取材が入っていた「サンデーLIVE!」の映像を見届けてから、黒石寺に向かい地元青年部に混じって小屋の片付けの手伝いをご一緒させてもらった。東北電力の方々がボランティアで大勢駆けつけてきてくれたので、とてもスムーズに片付けも終わり、普段通りの黒石寺に戻った。
「ありがとうございました」という最後の住職の挨拶の後も、「特別な終わり」というのを感じさせることはなく、皆それぞれ散会していった。

私たちはお昼に精進落としの焼肉を食べ、帰路につく。
新幹線車内で「ひるおび」スタッフから連絡が入り、満身創痍の状態で翌日にテレビのスタジオ出演を終えた。そんなこんなで祭りが終わったあとも緊張が続いていたが、三日間くらいは確実に目の奥にエネルギーが宿っているのを感じた。5年ぶりに蘇民祭の再生効果を実感した。「蘇民祭すげぇ」。

その後、様々なメディアのドキュメンタリーや新聞記事など、蘇民祭に関する報道や情報をたくさん見た。外国のニュースでも見たよ!という連絡もあった。しかし何を見ても聞いても考えてもどうして祭が「終わり」を迎えてしまったのか核心は未だ腑に落ちないところがある。
黒石寺蘇民祭青年部を中心に、祭りを続けていく動きがあるのも知っている。でも「今の形での祭りは中止」は受け止めなきゃないけない。

まずは黒石寺蘇民祭が無事行われたことに感謝。
そしてこの祭りの終幕が何を意味するのかの考察は別途後編に記したい。

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