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何も書きたくない。なぜか分かってきた。

「○○さん、Note更新しないんですか?」
「○○、Note書いてよ」
「○○、顔出ししてYouTubeちゃんとやってよ」

(※ ○○は自分の本名)

この半年で再会した多くの人が口にしてくれた。

素直に承認されているようでとても嬉しい反面、悔しいというか、情けないというか、もどかしいというか。なんだか言語化しにくい、ふわふわとモヤモヤの中間みたいな感情になってしまった。

皆が(多くは自分の知り合いが)お世辞でもNoteを読んでくれていたことに喜びを覚える。承認というかなんというか。僕自身の言葉が誰かを動かしていたり、何か思ってもらえたりするのは、素直に自分の承認欲求と自己顕示欲に向き合っている感覚がある。

少数でも待ってくれているという事実(?)は更に”嬉しい”はずだった。文字を書いているのも楽しいし、書きたいと思っているはずだった。

なのに、なぜか。なぜか、書きたくないという感覚もあった。

それは怖いという感情でもなく、嫌だという感情でもない、ナゾのものに由来している。このナゾのものに向き合うことを辞めていた。自分の中での優先順位を落としていた。


半年が過ぎた。

そろそろ。そろそろやろうよ。と自分の中で何かが呼びかけてきた気がする。

そうすると、自分の自由意志?自我?らしき何かが、そろそろ更新しようという気持ちを形作ってくれる。神や大人の視点から少し降りてきた、子供の自分の意識も書いても良いかもなって気になってくる。その芽生えた気持ちそのままに、僕は今パソコンに向かっている。

なぜ、優先順位を落としていたのか。答えらしきものが出てきた気がする。

結論は簡単。余計な自意識の高さが邪魔をしている。少し印象の悪い言葉で言うと、余計なプライドが邪魔をしている。

それは”知性”に対するプライドであり、臆病な自分の自信のなさと、それでも知的でありたいというエゴが、書くこと・言葉を発することから逃げる言い訳を作ってきた。

書くほど、何かを言うほど知性のなさを晒すことになる。

今まで僕が「書きたくない」と逃げてきたのは、知性こそが崇高で尊いものだという幻想と、その知性を持たぬ自分がダサくて嫌だ、持っていたい、持っているに違いない、というプライドから来ているのだろう。

そんなものに縋らなくていいはずだ。手を離そう。

そもそも、アリ/ナシの二元論じゃないはずなのに…僕がなぜか有していると思っている知っぽい何かは、手に収まるものでも蓄積されるものでもない、もっと複数のパラメータからなる僕には観測・測定不能の何かなのだろう。

であれば、この幻想から解き放たれた方がいい。もっと大胆に、もっとバカに、もっと知らないことを受け入れて愛していこうと思おう。


それでも、自分には持っているもの全てを捨てられる覚悟はない。たぶん捨てられないだろう。それが「ダサさ」というものなのかもしれない。

それでも、ダサいままでも、ちょっとばかりの勇気を出して、少しずつ、今の自分が如何に無知であるかを晒していこうと思う。どや顔で、自分が信じている面白いと感じるものを、理想の世界観を、綺麗ごとのまま言い続けようと思う。

今有している知性や思考力を大きなモノサシとして絶対視するクセを、少しだけ相対化しよう。(ただ、安易な相対主義には逃げないし浸らないようにもしたい)

知性が僕の大好きなホモサピエンスを駆動してきた側面を僕は信じている。もっと学んで、もっと考えて、もっと整理して、その果てにはもっと”善い”と思える世界が広がっていると信じているから。でもだからと言って、その知っぽい何かを絶対視するべきだということには繋がらないはず。

知れば知るほど、優しくなれる。世界は広がる。愛するということは、きっともっと知るということなのかもしれない。与えたいという感情は、知ることで生まれるのかもしれない。知らんけど。

でも、その知るということは蓄積することとは、若干違うのかもしれない。いや、厳密には、蓄積されるんだが、その上限値が僕らが一生をかけても蓄積しきれない程に大きすぎるのだろう。そして神なるものの視点(そんなものが存在するか証明すらできないが)に立つと、その蓄積量は他のホモサピエンスと比較しても微々たる差でしかないのだろう。

もともとそう言い聞かせてきたが、またこう言い聞かせてる。

もっともっと、整理せずに表出する想いを綴り忘れないように。知性の絶対視から少しだけ距離を取るように。そして、何よりも自分らしき何かが残す言葉を大切に。

2024/06/18 ぱたそんの独り言

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