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私たちは、いつでも過去と出会いなおす――柴田勝家『アメリカン・ブッダ』レビュー

(※この記事は2020/10/16に公開されたものを再編集しています。)

私たちは物語を生きている、だから後悔する

 私たちは過去をやり直すことができない。けれども、今抱えているような後悔をなくすことができるとすれば、その可能性にすがるだろうか。「そう、僕らはいつだって後悔をするだろう。いくら未来に備えようとも、過去を書き換えようとも、自分の選択が誤っていたと思う時はあるはずだ」(p. 97)。

 物語と呼ばれるものは、時間的構造を持っている。つまり、始まりがあって終わりがある。そして、その流れがどのように終わるかということが、それ以前の行為や出来事を意味づけている。フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』で描かれるギャツビーの華々しい生活は、その後の生活があるからこそ際立って感じられるし、「なろう」系小説における異世界へ渡る前のうだつの上がらない生活は、その後の(往々にして解放的な)異世界での生活を新鮮に感じさせる意図があるだろう。

 だが、私たちが過去の選択をいくら書き換えることができたとしても、自分の選択を誤っていたと思うときがあるはずだとなぜ言えるのだろうか。私たちが自分の人生を一種の物語として捉えており、過去の意味づけは死という最終的な終局を迎えるまで原理的には覆される可能性を抱えているからだ。いつでも「誤っていた」「正しかった」と過去を再解釈する契機がある。

 あるとき知人に言われた「ありがとう」という言葉を、そのときには気に留めもしなかったが、しばらくして精一杯の嫌味だと考えるということがありうる。そして、それにもかかわらず数年後にその知人が当時大変な思いをしていたのに、折よく自分が口にした言葉によってたまたま気持ちが軽くなったのだと知ると、「ありがとう」というシンプルな言葉が、これ以上ないほどの感情の表現として感じられるかもしれない。

 このことは、私たちはいつでも過去と出会いなおすことができるということであり、それは今回取り扱う書籍にとっても重要なモチーフとなっている。

「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」、「鏡石異譚」、「邪義の壁」

 柴田勝家の『アメリカン・ブッダ』(早川書房, 2020年)は、SF作家である著者の2016年から2020年までの作品が収録された短編集である。収録作品のあらすじと簡単な感想をざっと述べておこう。

 生まれてから死ぬまで、自身の宗教的世界観を再現した世界が映されたVRゴーグルを付けて生活する少数民族に関するフィールドワーカーの報告という体裁をとった「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」。

 カミオカンデを思わせる次世代の加速器がある地方都市で生活する少女に起こった不思議な出来事を、アウトリーチとして高校生向けに講演する物理学の大学教員と解き明かす会話が印象的な「鏡石異譚」。この小説は、地方都市で自己形成した一人の人間の変格的な成長物語として読むことができる。全編を通じて、過去とどう対峙するかという問いが、変奏されながらも繰り返し主人公に投げかけられる。ここで示唆されるのは、未来でちょっとした苦しみを味わずに済む“賢さ”を得るために注意深くあれという話でも、過去と対峙するということは、単に過去との付き合い方を変えるにすぎないという話でもない。過去との対峙は、これからの自分と向き合うこと、つまり未来の役割を真剣に捉えることでもあるという感覚が、この小説には息づいていると私は思う。

 地元にある旧家で一人暮らしていた祖母が亡くなり、解体工事を進めていたところ、特殊な仏教的な儀礼を行っていた部屋にある「ウワヌリ」と呼ばれる壁から白骨が見つかったというところから物語が始まる「邪義の壁」。否応なく突き付けられる、自分も知らない家の記憶をたどるという構成で、民俗学的雰囲気のあるホラー短編。

「1897年:龍動幕の内」、「検疫官」、「アメリカン・ブッダ」

 大英博物館で書物を漁り、博物学的な知見を活用して時折論文を書いて過ごしていた南方熊楠が、孫文とともにロンドンのハイドパークで出会った「天使」の謎を解き明かす数日ばかりの冒険譚、「1897年:龍動幕の内」。これは『ヒト夜の永い夢』の前日譚に当たるが、こちらだけを読んで十分に楽しめる。私は『ヒト夜の永い夢』を読んでいないが、探偵バディとも見える南方と孫文の道行には心躍るものを感じた。

 空港で検疫の仕事をするジョンにフォーカスを当てた「検疫官」。ジョンの住む国では、世界で唯一「物語」を病として扱って排除しており、ジョンは、感染症としての「物語」に対する水際対策を担っている。

 “大洪水”と呼ばれる様々な災禍によって人口が激減し、居住を続けられないほど荒廃したアメリカにおいて、身体を超越した世界を生きるトランスヒューマニストたることがスタンダードとなった世界に、仏陀の福音を語るネイティブアメリカンが現れたら……という内容の「アメリカン・ブッダ」。北米におけるネイティブアメリカンと、アメリカの日系人の強制収容所という二つのアメリカ社会におけるトラウマを結合させた上で、聖書を思わせる黙示録的カタストロフの後で、身体を捨てたVRMMOのような世界で生きざるをえない人々に手渡される救いのあり方を神話的な仏教イメージで描いている。アメリカ哲学を研究する者としても、とても刺激的だった。

 読み終えた今、改めてこうしてあらすじを書いてみても、相当にわくわくする舞台設定だと思うが、実際に読んでみても、それぞれのストーリー、焦点人物の置き方などが巧みであるだけでなく、リーダビリティも高い。短編としてとても出来がいい。

メディアリテラシーが想像力を過剰に掻き立てる?

 これらすべてを評価・検討することは難しいので、上でコメントしなかった作品について、ストーリーの核心には関わらない小さな設定を拾いながら、個人的な関心に沿って何か考えを進めることで書評に代えたい。なお、上に書いた以上の情報が登場するものの、ストーリー上の核心には触れないし、仮にネタバレだと感じても、本書の作品群はファーストリーディング(初読)が読書体験上とても大事になるタイプのものではないので心配には及ばない。

 「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」には、大学の講義を描いた一節がある。アメリカの大学に務める文化人類学者がオンライン講義において、VRヘッドセットを通じて学生たちに自分のフィールドワークの映像を体験させたというシーンである

「大変貴重な体験でした。スー族に対する理解も大いに深まったように思います。しかし、疑問に思うのは、実際にスー族という民族が実在しているのかという点です。私は残念ながら、彼らの存在を資料でしか知りませんし、今回見ることができたのも、VR空間上で暮らす民族を訪ねるというVR空間での話でした。これではどこまでが架空の話で、どこまでが真実であるか判断がつきません。」(p. 29)

この学生は、メディアリテラシーと言ってよいものを慎重に意識している。きっと普段も情弱であることを恐れ、ソーシャルメディアで色々なソースから情報を集めているのだろう。

 けれども、どんなものも等しく参照すればいいわけではないように、どんなものもとにかく疑えばいいのでも、疑ってみるふりをすれば褒められるわけでもない。常識的なタイミングで疑いを発動すれば、シニシズム、陰謀論、歴史修正主義といった純朴な視点がそれほど遠くないところで待っている。もちろん出された情報をとにかく信じればいいわけではないが、この学生のような“想像力豊か”な人物を生み出してしまっているのは、「色々見比べろ」「あれこれ疑え」といったメディアリテラシーに関わる命法であるように私には思える。

 現実は、往々にしてつまらない。ハリウッド映画やアニメにあるような権謀術数もなければ、「アサシンクリード」や「トゥームレイダー」みたいに何か不思議な秘密結社が世界や歴史を掌握しているということもない。そう試みる人はいるかもしれないが、そんな子供じみた世界把握でコントロールできるほど、この世界を成り立たせているシステムはシンプルではない。社会の中で複数の専門システムが互いを熟知しえないほどに分化し、それらが複雑に絡まり合っている上に、その各システムが絶えず書き換わっているのが、現代社会の特徴であり、どんな個人も集団もこの巨大で複雑なシステムを掌握することも、見通すこともできずにいる。

正義が人を対立させるならそれを消せば社会はどうなるか

 それから「検疫官」。感染症としての物語に行われる対策は、新型コロナウィルスとともにある社会にあって、どこか馴染みあるものに感じた。物語が発生しそうな原因があれば、たとえ細かなことであれ躊躇せずに対策する姿、物語に感染しているかどうかを専門家同士が慎重に議論するシーン、いずれもその感染症から無縁の地点から見れば、極端だったり大袈裟だったりして見える。けれども、防疫にとって「大体でよい」などということはないのだということを、それにもかかわらず、完全な検疫体制を敷くことは難しいのだということを実感させてくれる。

 ジョンの住む国では、宗教、本、映像、歌などの物語が排除されるだけでなく、人が物語性を持ったり、人や出来事が想像を掻き立てたりすることも避けている。この国では、大統領が誰かもわからないだけでなく、日常のプライベートな会話も「意味」を帯びかねない、突っ込んだ話をすることが差し控えられている。

 こうした体制をとるようになった背景には、政治的・宗教的な対立があるらしいと示唆されている(が、そうした歴史に関する語りは、それもまた物語を生みかねないので、詳細はわからない)。「正義に訴えるから対立し、人が死ぬのだ」と、どこかで聞いたような言葉を賢しらに繰り返す御仁をしばしばソーシャルメディアで目にするが、だったらそういう正義や理想を奪ってみたら社会はどうなるのかという思考実験をそのまま小説に仕立てたものとして、「検疫官」は読むことができる。


柴田勝家『アメリカン・ブッダ』ハヤカワ文庫(Kindleあり)

柴田勝家『ヒト夜の永い夢』ハヤカワ文庫(Kindleあり)

柴田勝家(作家)


疑いに関する過去の記事

「『疑う』ことが何かも知らずに」

「納得に至る方法は一つではない」


2020/10/16

著者紹介

谷川 嘉浩
博士(人間・環境学)。1990年生まれ、京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人文学連携研究員、京都市立芸術大学特任講師などを経て、現在、京都市立芸術大学デザイン科講師、近畿大学非常勤講師など。 著作に、『スマホ時代の哲学:失われた孤独をめぐる冒険』(Discover 21)、『鶴見俊輔の言葉と倫理:想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学:ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』(勁草書房)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)など多数。

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