わからないことほど素晴らしい経験はない(前編)
(※この記事は2019/08/12に公開されたものを再編集しています。)
暗闇で過ごすことの不安
作家のレベッカ・ソルニットは、「たいていの人は暗闇をおそれる。子どもは文字通りくらいところをこわがるが、大人にとってこわいのはなによりも、知ることも見ることもできないぼんやりとした闇だ」と書いた(『説明したがる男たち』99頁)。
ここでいう暗闇は、私たちの理解や説明が及ばないような出来事や体験を象徴している。人は、暗闇にいると不安になるので、自分が自分でなくなったような感覚を覚える。
その不安に堪えかねると、怒りをぶつけたり、暗闇であることを否認したりして、暗さから逃れようとするかもしれない。あるいは、取り澄ました表情で、落ち着いた振る舞いを見せ、“大人として望ましい”対応をするかもしれない。
暗闇で過ごすことに甘んじられない、そこで抱いた感覚を否定する、不安でないかのように取り繕う……。これらの反応は、と、表面上は大きく違うものの、暗闇に対する強い拒否感を共有している。
「わからなさ」と向き合う才能
ソルニットは、自身の暗闇への関心を、小説家のヴァージニア・ウルフの「わからなさ」への感受性と重ねている。ウルフは、講演「女性にとっての職業」で、作家でいるために自分の中の「家庭の天使」――自分を犠牲にして他人の要求や期待に応える理想化された女性――を殺さねばならなかったと語った。
ここで重要なのは、ウルフが、高い頻度で「わからない」と言っていることだ。ソルニットは、いくつかの引用を通じて、ウルフがわからなさを引き受け、暗闇にいることに長けていたことを示していく。
悩んでしまうとき、傷ついたとき、どうしようもない気分になったとき、私たちは、自分の体験に手っ取り早い説明をつけ、出来事を分類し、わかったつもりになって安心したくなる。ソルニットがウルフとともに提案しているのは、手近な答えへ飛びつく代わりに、「暗闇=わからなさ」と向き合うという選択である。
認識は遅れてやってくる
文学研究者のハーン小路恭子は、ソルニットの仕事に「遅れてくる認識」という補助線を引いたことがある。
この言葉は、体験した瞬間には腑に落ちていなかったことが、時間が経って、知っていただけのことに経験が追いついたり、もやもやした感覚に言葉が与えられたりすることで、その体験が、じんわりと自分の認識に定着していくことと捉えることができる。
誰しも、過去に言われた言葉や、ちょっとした光景を覚えているだろう。そうした体験のいくつかは、「ははーん、そういうことね」と後になってから了解されたかもしれない。体験に遅れて認識が到来するとは、そういうことだ。
「学生時代、もっと勉強しておけばよかった」
罪のない例で考えてみよう。多くの人が、周囲の大人たちから「勉強しなさい」という助言をもらったことがあるはずだ。そう言われる度に、「勉強すべき」という情報だけはしっかりと頭の中に残っていくだろう。
ところで、そのアドバイス通りに行動した人はどれくらいいるだろうか。恐らく、なんとなく無視してきた人が大半ではないだろうか。大抵の人は、「そりゃそうなんやろけど、実感も湧かんからなぁ……」と、なんとなく流されて時間を過ごし、大人になってから「学生時代、もっと勉強しておけばよかった」とこぼすようになる。
このように、往々にして、知識が遅れて体感されがち(=認識が遅れがち)であることは、そのまま、教育の難しさを把握する補助線ともなる。それを知り、使いこなせているからこそ、それを知ることの意義や有用性が体感されているのだから、それを知らない者が、それを知ることの意義や有用性を体感することはできない。少し考えてみれば、当たり前のことなのだが。
過去を新しく知ること
何の意味を持つのかわからないが、とにかく印象に残っている言葉、ずっと心にある光景、忘れられない体験が多くの人にはあるはずだ。そうしたものは、その後の体験を位置づける参照点のような役割を果たしている。
だとすると、過去は単に過ぎ去ったものではなく、私たちは、過去の体験を新しく知ることができるし、過去には、予期せぬ意味を提示するだけのポテンシャルがある。
逆に言えば、過去のあらゆる体験が「遅れてくる認識」の当事者にならないのは、日常の忙しさの中で日々の体験を手早く解釈し、“理解したつもりになる”ことに慣れているからかもしれない。
※レベッカ・ソルニット、ハーン小路恭子訳『説教したがる男たち』(左右社 2018年)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07KGPR24V/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_29MsDb1P9GKKF
後編に続く
2019/08/12
著者紹介
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?