わからないことほど素晴らしい経験はない(後編)
(※この記事は2019/08/14に公開されたものを再編集しています。)
中国古典を子ども時代になぜ読んだのか
かつては、子ども時代に中国古典を暗唱させられ、よくもわからないままに、「温故知新」や「耳順」、「国破れて山河在り」や「李下に冠を正さず」といったフレーズを覚えたものだ。もはや失われてしまった習慣なのかもしれないが。
『大学』『論語』『中庸』『孟子』といった儒教関連文献から、『孫氏』『貞観政要』『菜根譚』『史記』に至るまで、中国古典は、暗唱の対象になっていたり、処世訓の代表例とされたりして、誰もが一度は通っておくべき基礎教養だとみなされていた。
暗唱のレパートリーには、部下への接し方や友人関係、役割が作る人間像など、繊細な人間関係の機微や処世術を扱ったり、学究の楽しみや老境の感慨を表現したりしたものまである。
しかし、よく考えてみてほしい。そんなもの、子どもに実感できるだろうか。当然ながら、腑に落ちることはない。子どもにとって、暗記した内容は単に知っているにすぎないことであり、経験が追いついていないからだ。
芽吹くかもわからない種を取っておく
それにもかかわらず、子どもに実感しようもない知識を詰め込もうとするのはなぜだろうか。なぜ大人は、そうした知識を子どもに持たせたがるのだろうか。
恐らく、実際に心を悩ませる暗闇に直面したとき、「あっ、これのことか」と自分なりに解釈していくためのツールとして、知識を体験に先んじて伝えておきたいのだ。
「今わからない」ことは、一生わかる必要のないことでもないし、一生わかることができないとも限らない。つまり、今の自分では、どこにも位置づけられないものは、将来芽吹くかもわからない種のようなものなのだ。
植物のメタファーを育てるなら、誰かを教えることは、教える側が有用だと信じる種を学ぶ側に手渡していく作業だと表現できるかもしれない。そして、それが芽吹くかどうかは、誰にもわからないのだ。教える側にも、学ぶ側にも、そして種自身にも。
とはいえ、優れた学び手でもあった作家のヴァージニア・ウルフやレベッカ・ソルニットから、種を芽へと生長させるための確率を上げる方策を読み取ることができる。二人は、「暗闇=わからなさ」の中で過ごすことができる人物だった。すなわち、今の自分にピンとくるどうかにかかわらず、謎は謎のままにペンディングして心の棚に取っておく習慣を持っていたのだ。
つまり、暗闇に対する適切な応答は、それに不安を抱き、戸惑いながら、その感覚を手放さずに取っておくということかもしれないのだ。
「四十年たって耳にとどく」
取っておいた種を私たちはどうすればいいのだろうか。恐らく、心に澱のように体験を沈めておき、それが芽吹く日を“待つ”ということのほかにない。
哲学者・鶴見俊輔の「四十年たって耳にとどく」という美しい文章は、「あれは何だったのかな、と思うことがある」という言葉から始まる。この文章の主題の一つは、四十年経って、かつて聞いた大学の講義がしみじみと理解されるというものだ。
鶴見は、数え切れぬほど本を読み、純文学・大衆小説・マンガ・講談とジャンル横断的に楽しみ、やはり数え切れないほどの書籍を、想像を絶するほどの多ジャンルにわたって刊行し、数え切れないほどの人たち、各界のトップランナーたちと座談や対談で語り合う言葉を持ち合わせていた。
そうした人物が、文章を「あれは何だったのか」と始めていることに驚きを感じるべきだろうし、その事実は、私たちに勇気を与えてくれもする。何かを理解するのに、四十年かかったとしても、遅すぎることはないということなのだから。
自分を失うこと
これまで見てきたのは、言葉や知識が先んじていて、経験が伴わない場合の「遅れてくる認識」だった。最後に異なる例を挙げておきたい。
心ない言葉や、貶めるような振る舞いを差し向けられたとき、自分が何をされたのかすぐにはわからない、ということがあるだろう。ソルニットは、こんな出来事について書いている。
明らかな暴力行為を前にすると、我慢することで事態を収拾しようとするかもしれない。暗闇がもたらす戸惑いは、自分自身の感覚すらわからなくさせる。
私たちにはことばが必要だ
衝撃的な体験とは、それがいいものであれ、悪いものであれ、息を詰まらせ、言葉を奪うものだ。ハッとさせる体験は、良かれ悪しかれ、私たちを迷わせてしまう。
しかし、自分の具体的な感覚と向き合うことができれば、過去の体験を再定義し、不安を落ち着けることもできる。どれだけ遅れたとしても、暗闇の中での自分の感覚に耳を澄ませば、それをそれとして認識することができるのだ。上で見た女性が、この少し後で痴漢をそれとして認識し、声を上げることができたように。
考えてみると、上の例では「言葉」こそが、体験を認識する手助けとなっている。暗闇の歩くための手がかりだ。女性への暴力に限ってみても、セクシャルハラスメント、ストーカー、フェミニズム、ドメスティックバイオレンス、マンスプレイニングといった言葉は、女性が日々出会う体験を適切に捉え、それを変えていく道を開くための言語的ツールとなっている。
確かに、言葉は、私たちが自分の感覚と向き直り、誰かと結びついて励まし合うための支えになっているし、私たちを少し強くしてくれる。それは、認識を与えることで、暗闇に投じたランプのように自分たちの周囲を少しだけ明るくするからだ。
※鶴見俊輔
※鶴見俊輔「四十年たって耳にとどく」、黒川創編『思想をつむぐ人たち:鶴見俊輔コレクション1』(河出文庫 2012年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4309411746/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_beNsDbXXEA2KX
※イ・ミンギョン、すんみ・小山内園子訳『私たちにはことばが必要だ』(タバブックス 2018年)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07L8Q6X1G/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_fbNsDbBKWV87M
※マンスプレイニング
2019/08/14
著者紹介
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