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ポストトゥルースの時代は、”ワンチャン”への期待で溢れている――アンダーセン『ファンタジーランド:狂気と幻想のアメリカ500年史』上巻レビュー②

(※この記事は2019/08/01に公開されたものを再編集しています。)

人は奇跡を期待する

アメリカには、プラグマティズムなどの哲学を生み出した知性の歴史があるのだが、常にその裏面には、信じたい幻想に浸るような情念の歴史が存在している。500年に及ぶ後者の歴史に焦点を当てたカート・アンダーセンは、『ファンタジーランド』において、自身の議論がアメリカ例外主義(exceptionalism)を証拠立てるものだと述べている。アメリカに特異的な脈絡がもたらしたアメリカ固有の特徴だ、というのだ。しかし、アメリカ入植の物語に、事実と幻想の取り違え、希望への執着が織り込まれていたとしても、それは果たしてアメリカだけの問題なのだろうか。

 ひとまず指摘すべきなのは、その取り違えの背景にある欲望が、「奇跡への期待」であるということだ。彼はこう語っている。

生活を一変させる奇跡を求める度合いにおいて、アメリカに勝る国はない。その点で、アメリカは間違いなく例外的である。(p.144)

それ一つですべてを解決できるような「マスターキー」や「万能薬」を人は求める。人は、ヒーローに、外部の権威に、抜本的な改革に、既得権益の批判に、あるいは、神に、すべての解決を期待する。不満と苦難に満ち溢れた現実を忘れさせ、これだけでうまくいくと夢見させ、がらりと事態を変えてくれると信じさせ、希望を抱かせてくれるものに人は憧れる。いわば、“ワンチャン”への期待である。

過去に書いた論考(谷川嘉浩「宗教原理主義が生じた背景とはどのようなものか」戸田剛文編『今からはじめる哲学入門』京都大学出版会所収)の言葉を借りれば、これは、構造的な不確実性に直面させられる近代にあって、人間が抱きがちな「不安」を背景とする切実な「期待」なのだと捉えることができる。だとすると、奇跡的な変化への期待は、抜きがたく人間に存在する条件なのではないか。仮に“ワンチャン”への期待が「アメリカ的な夢想」だとしても、もはやアメリカニズムは全世界にとって、私たちが生きる環境の重要な部分なのだから。

 これに対して、いくつかの処方箋を考えることができる。まずは、アンダーセンが採用した戦略が挙げられる。それは、反知性主義的な伝統を向こうに張って、「正しさ」や「事実」を取り戻し、《合理的な人間》という見方を回復するという、知性主義的なアプローチである。実際、アンダーセンの『ファンタジーランド』を一読して多くの人が思い出すのは、森本あんりの『反知性主義』やリチャード・ホフスタッターの『アメリカの反知性主義』といった著作だろう。しかし、知性主義の素朴な復権がいかに困難であるかということは、アメリカの政治的状況が実地で証明している。

私たちは同じ森で一世紀迷っている

こうした素朴なアプローチは重要だが、今回は異なる補助線を引いておきたい。ここで思い出したいのは、私たちは有限であり、狭義の合理性に徹して自分の日常を暮らしていくことはできない、という事実だ。一分一秒の隙もなく合理性に裏打ちされた生活をしている人がいるだろうか(そう思い込んでいる人はいるかもしれないが)。

猿と人間が共通の祖先を持つと指摘したダーウィン、意識という表面に上らない膨大な無意識に注意を向けたフロイト――他に誰を並べても構わないが、こうした異才の足跡は、人間が、ごく狭い意味での「合理性」に徹して暮らしを作ることの偏狭さを指摘するものだった。私たちは、彼らの後に続いて、狭い意味での「合理性」概念を放棄・修正するか、非合理性を織り込んだ形で人間観を再構成するべきだろう。

人は、何かに期待し、希望を抱くことを避けて生きることはできない。不確実性に、不安に、自由に堪えられないからだ。答えが不確定であることを受け入れるのは、認知上の負荷が大きい。そして、希望は、絶えず幻想や妄執へと転化するし、強く信じられた幻想は、私たちを不安から解放してくれる。私たちが自覚する以上に、人間は頼りないものだ。素朴に「人間は合理的である」とは言えない。だとすれば、《頼りなさ》を織り込んだ思想を構想すべきではないだろうか。

そう聞くと、前途も見えない森に迷子になったかのように感じられるかもしれない。けれど、私たちに手がかりがないわけではない。20世紀初頭、ジョン・デューイ、ウォルター・リップマン、グレアム・ウォラスといった研究者が、当時の群集心理学や社会心理学の成果をベースに同様のことを試みているからだ。裏を返せば、私たちは、一世紀近く同じ森で迷い、まだ出口を見つけられずにいるということでもあるのだが。

ほころびに敏感であること、立ち止まること

フェイクニュースを流布する者は、言葉によって読者の想像力を塗りつぶそうとしている。その一方で、私たちは、「奇跡」を望み、根本的な変化を待望する中で、進んで彼らに想像力を明け渡している。「わからない」「もう少し調べよう」「最終的な判断を留保する」と熟慮する――不確実性に耐える――よりは、耳目を引く言葉を信じ込む。すぐ判断する方が不安も少ない。そうして“ワンチャン”を期待する私たちは、被害者とは言えない。期待を満たす幻想を選び取っているという点で、私たちは、デマゴーグ(扇動者)の共犯者だ。

先ごろ、ケンブリッジ大学の研究者による、ある研究成果が話題になった。フェイクニュースを流布させ、フォロワーを増やすというシリアスゲームを考案し、それを用いた心理実験を行ったところ、プレイした被験者のフェイクニュースに対する「免疫」が高まったというものだ(*)。

ここから学び取ることができるのは、人間の頼りなさ、つまり、非合理性に関する知識をベースに、自分たちの直観を研ぎ澄ませていくということなのかもしれない。具体的に私たちにできるのは、「これを信じることで、自分はどこに行こうとしているのか」と問うことだ。しかしながら、問いは、立ち止まらなければ生まれない。

問いは日常への埋没から脱したところにある。何かきな臭いものを感じた瞬間に抱く、「ん?」「あれ?」という違和感がその典型例だろう。スパイダーマンいうところの「むずむず(Peter Tingle)」のような感覚だ。私たちは、そうした漠然とした感覚に水をやり、大切に育てなければならない。幻想のほころびへの敏感さは、問うことによって育つからだ。

枯れやすい芽の育て方

「そうあってほしい」が「そうである」にすり替わるという経験は、恋愛やビジネスの現場で、飽きるほど目にすることができる。自分自身の経験を振り返ってほしい。期待や幻想を事実と取り違えることは、遠い「誰か」の話ではなく、他ならぬ「私たち」の問題だからだ。

この頼りなさを前に、何を試みることができるだろうか。私たちにできるささやかな努力は、過去の「私たち」が歩いてきた経路をたどり、私たちの社会に関する多様なスケッチを手元に置いておくことだ。そのスケッチは、自分の違和感と向き合うヒントになる。

日常を成り立たせていく忙しさに慣れてしまえば、私たちは抱いた違和感は忘れられてしまうし、不安定さに堪えきれず、適当な情報を信じて安心を得る代わりに、考えるのをやめてしまう。そもそも、立ち止まって考えたり、自分の感覚と向き合ったりすることは、精神的な負荷もあって面倒なことだ。そもそも、感覚などという答えが究極的には確定しない事柄について進んで考えることは、人間にはハードルが高く、わざわざ取り組むモチベーションを持つことが難しい。そういうわけで、“直観を育てる”という作業は、最初から困難な道を運命づけられている。違和感の芽は、容易く枯れてしまう。

だが、悲観する必要はない。確かに、私たちは、自分の直観と孤独に向き合うほかない。それは面倒かつ困難な仕事だ。けれど、暗い森の中を、たった一人で歩かなければならないわけではない。私たちは、誰かとともに知ることができるし、誰かとともに感覚を言語化していくことができるし、誰かの肩を借りて遠くまで進むことができる。500年分の助走つきで現代社会を捉える本書の試みは、フェイクに踊らされる人間も、そんな自分から抜け出したいと望む人間も、決して一人ではないのだと思い出させてくれる。

(*)ゲームをプレイするだけで「フェイクニュースのワクチン」を接種できることが判明 - GIGAZINE https://gigazine.net/news/20190628-fake-news-game-work-vaccine/


2019/08/01

著者紹介

谷川 嘉浩
博士(人間・環境学)。1990年生まれ、京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人文学連携研究員、京都市立芸術大学特任講師などを経て、現在、京都市立芸術大学デザイン科講師、近畿大学非常勤講師など。 著作に、『スマホ時代の哲学:失われた孤独をめぐる冒険』(Discover 21)、『鶴見俊輔の言葉と倫理:想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学:ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』(勁草書房)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)など多数。


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