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総合は、子どもの自然の姿 -総合的な学習の時間が必要なわけ その2-

 次山信男先生は、次のように述べられています。

子どもの側に立てば総合的な学習は自然の姿であり、分化された学習は人為の姿と言えよう。そして、自然の姿には自ら道を拓く楽しさがあるが、人為の姿には歩かなければならない軌道が見え隠れする。(次山信男編著『子どもの側に立つ社会科授業の創造-新しい社会科教育像を求める実践的構想15講-』東洋館出版社)

 教科というのは、効率よく学校で学習できるようにするためにつくられたものです。実際の社会でも、会社での仕事を学ぶのに、これは国語、これは数学と分かれてはいません。それは農業であっても工業であっても、そのほかの職業であっても、同様です。もちろん職業以外の学びもそうです。大人であっても、子どもであっても。
 それが自然な学びの姿でしょう。つまりは総合が自然な姿なのです。

 私は、総合的な学習を理解してもらうために、映画を題材として話をします。映画は総合芸術とも言われますね。
 映画のストーリーだけを鑑賞するのは「国語」です。
 映画の音楽だけを鑑賞するのは「音楽」です。
 映画の衣装、背景だけを鑑賞するのは「美術」です。
 そして映画をまるごと鑑賞するのが「総合」です。
 音楽でもオペラなど、総合的に鑑賞するものもありますが、音楽の授業では、やはり音楽に重点があります。オペラの舞台や衣装について学ぶということは、あまりないでしょう。
 そして映画を鑑賞するときには、各教科で学んだことをもとにして、より深く味割ることができます。例えば、映画のスターウォーズを鑑賞するときに、世界史の知識があると、「元老院」をより深くイメージできますし、物理や天文学の知識があると、また深い味わい方ができるでしょう。
 つまりは、各教科で学んだものを活かして、教科を超えた対象を学ぶのが「総合的な学習」なのです。そう考えると総合的な学習がわかりやすいのではないでしょうか。
 そして、私たちの社会、日常は、「総合」に溢れています。

 合科学習を主導した木下竹次も次のように述べます。

(分科学習は)実際の学習においては部分の学習から始めて漸次に全体を構成しようというのである。これが系統的で学習にもっとも有効な方法と信ぜられた。
(中略)
分科主義にも一応の理由はあるが、人間生活をあまりに分類的に構成的に取り扱うては、複雑微妙な人生の向上をはかり文化の創造を進めていくことは困難である。(木下竹次『学習原論』)


  そして倉澤栄吉は、「『総合』なんてものは、大人が言わなくたって、子どもは自分でやっている。総合する力は、彼らが持っている。」とも述べます。これは総合的な学習についてではなく、国語の単元学習について述べたものですが、その主張の根本は同じでしょう。

 上田薫は「教師は教科というものにしっかりとつかまることによって、がんじがらめにされていることに気付かないのである。教科を越えることが教科を生かすゆえんであることを、あらためにて心に銘ずべきではないだろうか。」とも述べます。

 OECD教育研究革新センターでは「イノベーティブな学習環境プロジェクト」を進め、七つの「学習の原理」を導き出しました。その7番目が「水平的な関係をつくる」で、学習の内容が教科にとどまるのではなく、教科の領域を越えた水平的な関係をめざす必要があることを示しています。つまり、生活の現実的な問題に対応していくためには、教科を超えた総合的な力必要とされるということ、そして、それをめざすべきだということです。

 繰り返しますが、学校の外に出ると、もう教科で学ぶことはありません。「総合的な学び」だけです。

 そして、「学びあう」ということも、子どもの自然な姿でもあるのです。
  主体的な学び合いは子どもの自然な姿(過去記事のリンク)

 「総合的な学習」が不要だとお考えの方は、ぜひ、このあたりを考えてみてください。

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