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主体的な学び合いは子どもの自然な姿

「そもそも最初から自主性のある子供はおらず、学校から勉強をやらされて初めて育まれる感性である」
と書かれた記事を見ました。

教育に関わっていながらこのように考えている人がいるんだ、という驚きと、
この人は子どもを見たことがあるんだろうか、という疑問を感じました。

私には3人の子どもがいます。
その子どもたちの会話を聞いていると、ほとんどが学び合いとも言えるものです。
と言っても、いわゆる勉強ではありません。
例えばゲームの攻略法、アニメについて、スマホの使い方などです。

研究会や打ち合わせなどで学校を訪問することはよくありました。
今まで訪問した学校は1000校を越えていると思います。
そうした際に、休み時間の子どもたちの様子を見ていると、やはり学び合っています。
細かい内容はよく分かりませんが、
「あれ、どうすればよかった」
「こうすればいいよ」
「ああ、そうか」
のような声があちこちで聞かれます。

それは大人でもそうではないでしょうか。
会社でも、どこでも人は集まると、なんらかの問題について、学び合っているのではないでしょうか。
仕事のこと、趣味のこと、政治のこと、経済のこと、様々です。
本で読んでも、ネットで知っても、それをさらに他人と深め合う、そうしたことが普通にあるのではないでしょうか。
最近、Twitterを始めましたが、これも学び合いと言えると感じています。

つまりは、人は学び合うのが自然な姿だと考えます。
そして学び合うのが自然な姿であるならば、それは自主的(主体的)な学びとも言えます。「やれ」と言われて「やらされている」学びとは異なるものだからです。

しかし、学校の勉強だけは、違っていました。
学び合うのが自然な姿であるにもかかわらず、椅子に座らされ、教師の話を聞くだけの勉強が続けられてきたのです。

また、主体的に学ぶ子どもは想像以上の力を発揮してくれます。
低学年でも数研で1級をとった子どももいます。鉄道が好きで日本全国の駅名を覚えるような子どももいます。
どれもやらされたものではありません。
それにもかかわらず、学校ではやらされる勉強がくり返されてきました。

これらは旧来の授業と言われているものです。
冒頭で紹介した記事を書いた人も、こうした旧来の授業をイメージしていたのではないでしょうか。

子どもをどう捉えるかで、教育、授業は変わります。
教育哲学者の村井実は、次のよう述べます。
 子どもを白紙のように捉えると、大人がそれに描いていく教育になります。
 子どもを植物のように捉えると、環境を整えてやる栽培のような教育になります。
 子どもを動物のように捉えると、家畜などを飼育するイメージの教育になります

主体的で学び合うのが子どもの自然な姿と考えるならば、授業はどのようになっていくでしょうか。
それは、椅子に座って、黒板を見て、教師の話を聞くだけではないはずです。

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