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対話的な学習のために必要なこと

私が見たベストな授業の1つに滝井章先生の「分数の割り算」の授業があります。
導入で問題を出したところ、子どもの1人が「ひっくり返してかけるといいと思います」と発言しました。すでに塾で習っていたようです。
普通の先生ならば「だまってて」というところかもしれません。
しかし、滝井先生は、指導案を捨てて、「そうなの、みんなに説明して」と言います。
その子は説明しますが、その考えに納得しない子どもも出てきます。その子も、なぜひっくり返してかけるのか、理由までは理解していないようでした。
それからクラス全体で議論が進んでいきます。一斉授業であっても、対話的で探究的な授業でした。
その授業について、昨年滝井先生と話題にしましたところ、「クラスをあそこまで育てるのが一番大変だった」と言われるのです。

対話的な授業をしよう、そう思ってもクラスが育っていなければ、実はできないのです。それで失敗している教師も多いのではないかと思います。
対話的な授業に必要なことの第一は、対話ができるクラスに育っていることです。

クラスが育つとはどういうことでしょうか。

大村はまは次のように述べます。

人をばかにする、下に見るということのほんとうにない教室、そういう教室にしなければ、たとえば話し合いなどということは成立しません。(中略)ですから、話し合いという時は、話し合いのしかたなどを教える前に、誰かが誰かをばかにしているということのない教室を作ることがまず大事です。

教師と子どもの上下ではない水平的な関係、子ども同士の信頼関係、それが対話の基本にあるということです。
これが第一でしょう。
そのようなクラスになっていないのに、対話を取り入れても失敗してしまうのではないでしょうか。

ブラジルの教育哲学者パウロ・フレイレは「対話なくして問題解決型学習はない」と言います。
フレイレの問題解決型の学習は、知識伝達型の銀行型教育に対する学習で「本質的に物事を考える」ことをめざします。日本で行われてきた算数や社会科の問題解決学習とは違ったものです。

 対話を通して矛盾を超えていくところには、 結果として新しい関係性が生まれる。教育される側にとっての教育する側でもなく、教育する側にとっての教育される側でもない、教育する側とされる側は対等な関係として立ち現れてくる。

『被抑圧者の教育学』

 教育者と学習者が対話を通して学ぶことは、その関係を対等なものにするのです。
 そして「対話」について次のように述べます。

 対話とは世界を媒介とする人間同士の出会いであり、世界を”引き受ける”ためのものである。あなたと私という関係だけで空虚になってしまうようなものではないのである。
 言葉を発して世界を「引き受け」、世界を変革するのであるならば、対話は人間が人間として意味をもっための道そのものであるといえるだろう。
 だからこそ対話は人間の存在の根幹に かかわる希求である。そして対話が、対話する人間同士の出会いであり世界を変革し人間化するための省察と行動のうちに行なわれるならば、対話というものを、ある人からある人に考え方をただ移し替えたり、考えを交換して消費してしまうようなものにすぎない、というふうに価値を貶めることはできなくなる。

『被抑圧者の教育学』

対話は、ただ、自分の意見を相手に伝えるということではないのです。フレイレの言う人間化というのは、対話と学習を媒介にして、抑圧されている状況を客観化し、自覚し、主体的に変革していく過程です。
そして、その対話を進めるためには、次のことが必要になります(強調筆者)。

 世界と人間に対して深い愛情のないところに対話はない。世界を引き受けることは創造と再創造の営みであり、愛のないところでそういうことはできない。
 愛は対話の基礎であり、同時に対話そのものでもある。お互いの主体的な関係のうちに立ち上がるものであり、支配したりされたりする関係のうちに生まれるものではない。
 また、謙虚さのないところにも対話はない。人間というものが続いていくこの世界を”引き受ける”ためには傲慢であってはならない。
 対話は人と人がお互いに出会い、お互いの知恵を共有するような行為だから、どちらか一方が謙虚さをもたなければ、対話として成り立たない。
 無知なのは常に相手のほうで、自分はすべてをわかっている、と思うような状況で、どうやったら対話が成り立つだろう?
 自分は生まれが違う、という態度で相手の前に立って、相手をモノのように扱うような状況でお互いの間に対話が成立するだろうか?
 また人間という存在に深い信頼がなければ、対話は成立しない。人間はなにかをすることができ、また再び何らかの行為に向かうものである、 ということへの信頼。創造し、再創造する力への信頼。 人間はよりよきもの、全きものを目ざすものである、ということへの信頼であり、また人間のそのような力は一部のエリートだけの特権としてあるのではなく、すべての人の権利としてあるのだ 、ということへの信頼、 のことである。

『被抑圧者の教育学』

対話は、単なる話し合いではありません。議論で勝ち負けを気にする人もいますが、議論も対話も、それによって新しい価値を創出するものです。自分の説をごり押しするものでもありません。

対話的な授業に必要なことの第二は、対話を通して「何らかの行為に向かう」ことや「創造、再創造」「よりよきものめざす」ということです。だから「信頼」が大切になるのです。

昨年、対話を取り入れた授業を見ましたが、子どもが解決したいとも思っていないのに「じゃあ、隣と話し合って」と話し合わせていました。教師の指示だから話し合う、ということになっているんですね。
そこには、創造もよりよきものをめざすことはありません。

パウロ・フレイレの述べていることは、非常に高度なことにも感じますが、難しく考える必要はありません。
例えば、国語で、登場人物の気持ちを考えるとき、教師の考え、指導書に書かれている解釈を覚えようというのではなくて、対話を通して自分たちでそれを考えること、それがフレイレの言う「創造と再創造の営み」ともなるのです。

そうしたことを意識するのも対話的な学びのベースとして必要なのではないでしょうか。

本稿は、拙著『よい授業とは何か』(学文社)の一部に大幅に加筆修正したものです。

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