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同一鋳型にはめられる子どもたち


 プログラミング教育が進められています。
 また、文学部不要論、古典不要論なども出ています。
 私が、こうした教育改革や議論から感じるのは、次のような子どもの姿です。

 英語が話せ、ICTを駆使し、プログラミングができ、わかりやすい企画書を書き、プレゼンテーションが上手で、海外のビジネスマンとも対等に仕事がでるような人

 今、社会が教育に要請しているのは、「すべての子ども」をこのような「同質な人」に育てることのように感じるのです。
 おそらく本田由紀さんが『教育は何を評価してきたのか』で言うところの「水平的画一化」にも通じるところだと思います。この「同質の価値」の中で序列ができているのが、今の教育の現状であり、問題でもあると思うのです。

 保護者ならば、自分の子どもがそうなるのはよいことだ、と考える人も多いでしょう。きっと高い年収で、バリバリと仕事ができそうです。
 でも、私には、これは企業の経営者にとって都合の良い「人材」にしか思えないのです。
 一見、創造性を求めてもいるようですが、このような同質を求める教育の中で、創造性が生まれるはずはありません。

 大正時代に及川平治は次のように述べています。

 一つの家屋をつくるのに土台となるもの柱となるもの、屋根となるもの等、各特質を有する物体を要するごとくもっとも健全なる国家を建設するには、文学に秀ずるもの、科学の研究に従事するもの、政治的才能のあるもの、軍事に身を委ねるもの、宗教伝道に生命を献ぐるもの等、人類生活の一方面を分担して勤労するものを以て組織せねばならぬ。現今の学校は人の個性の発達を抑圧してことごとくこれを平凡化し、同一鋳型に投じてダース的人間をつくっているようである。こういう教育では、とても独創、発見、原作、自働に富める人間をつくることはできない。
(及川平治『世界教育学選集 69 分団式動的教育法』明治図書、1976年 原著は1912年刊)

 及川平治は、明石女子師範学校訓導で、木下竹次と並び大正新教育運動の中心として活躍した教師です。
 及川平治は、「子どもの能力不同の見地」に立ちます。子どもの能力はそれぞれ違うということです。そして社会で必要とされる人材も違います。だからこそ、多様な教育が必要と言います。
 それにもかかわらず、同じ学習内容で、同じような子どもを育てていることを及川平治は問題にし、批判しました。
 そして、同じころ木下竹次は「押し出されたトコロテン」とも表現しました。

 現代でも、社会を構成するのに必要な職業は「多様」です。必要とされる能力も「多様」です。農業や漁業も大切です。工場で製品を作る人がいないと、社会がまわりません。それにもかかわらず、大企業で必要とされる「同質」の人材をつくる教育を進めていこうとしているのです。大正時代に批判されたのと、同じことを考えている教育者、一般の人が多くいるのです。
 及川平治は「こういう教育では、とても独創、発見、原作、自働に富める人間をつくることはできない」と述べます。私も同感です。

 社会全体を見渡すと、誰もが「多様性」「多様化」の必要を説きます。これに反対する人は、ほとんどいないでしょう。
 今回の教育課程改訂のもとになった中央教育審議会答申には、「子供たちの多様で質の高い学び」「興味や関心に応じた多様な学習機会」「多様な他者と協働しながら目的に応じた納得解を見いだしたりする」のように「多様」という言葉が214カ所で使われています。
 それほど、「多様」を重視しているにもかかわらず、仕事に役に立たないと考えられる教育は切り捨てるべきだと考えている大人が多くいます。それも頭がよいとされる研究者などにもです。
 プログラミング教育が不要とは言いません。必要だとも思います。
 でも、それだけでなく、子どもが興味・関心をもったことを伸ばしてやってほしいと思うのです。
 上質な木材は、枝打ちをして真っ直ぐに上に伸びるようにします。そのほうが商品価値が高いからです。でも、子どもは商品でも人材でもありません。枝打ちせず、枝も葉も伸び伸びと伸ばし、育ててあげたいと思うのです。


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