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質の高い対話、質の高い問い

年末に、とてもよい刺激をいただいたので、ちょっとまとめてみました。

サッカーをやってきたので、ついサッカーに喩えてしまいますが、ご容赦ください(その昔は元旦と言えばサッカーだったので)。
サッカー界隈では、システム、フォーメンションについての議論が好きな人が多くいます。4バックがいいとか、3バックがよいとか、というものです。
ですが、そもそもキックが不正確、トラップが下手など、サッカーの技術がともなわないと、システムやフォーメーションをどう変えても強くはなりません。
あわせてサッカー観も大事です。私は高校1年の時にスポーツ少年団の全国研修に参加させられましたが、そこでまず言われたことが、「サッカーは点をとる競技だ」ということです。至極当たり前ですが、技術が身についてくるとパスを回すのが楽しくなって、シュートを打たないということになりがちです。「点をとる競技」というより「パスを回す競技」のようなサッカー観に陥ってしまうのです。だから最初に強調されました。サッカーとは何か?そういうサッカー観も大事なのです。
その技術とサッカー観がしっかりとないと、システムやフォーメーションを変更したからといってアマチュアがプロチームに勝つということは、まずありません(たまにジャイアントキリングもありますが、一般論として)。

教育界隈でも、形の議論が好きな方が結構います。でも、サッカーと同じように、形を変える、例えば、対話的な学びを取り入れたから、即、授業がよくなるということもないでしょう。
そのためには、対話を組織する教師の技術(キックやトラップの技術)、それを支える学習観、授業観(サッカー観)、が必要です。

林竹二は、講義形式の授業をします。そして子どもに発問し、その子どもがわからないとわかるまで問い続けます。「他には」のように他の子どもを指名することはありません。一斉授業ですが、一対一の対話で授業が進められます(この具体的な出典は失念しました)。

これについて、林竹二、波多野完治、斎藤喜博が鼎談で取り上げています。関連した部分を抜き出してみます。

波多野 たしかに林先生の方法だと、一人の子どもと林先生との対話でも、あとの子どもがそれに全身で参加してますね。


斎藤 一つの授業で、完全に一対一になり、すっかりだめになっている場合は、ほかの子はみんなあくびしている。それで先生たちはぼんやりしている子をめがけて指名をしたりして苦労してますね。そういうのではなくて、表面は一対一に問答がされているけれども、その質が他の子どものいままでの日常的な考え方を否定するようなものに高まったとき、他の子もハッとなって内面的に活動してくる。


 そういう集中は私と山角君との間だけではなくて、四十人なら四十人の子ども全体の間で成立しているわけですよ。授業でのやりとりは山角君と私だけの対話ではないわけですね。それでこういう高度な集中をしたときに初めて、ほかの人が全く消えてしまうように感じる。「そしたらなぜか教室にいて、だれもいないように感じました」と、みんながそう感じているわけですね。そういう高度の集中を全然考えないで、四十人の人に次々と質問を出して答えさせるというようなやり方をやるから、非常に浅い次元で四十人との関係がつくられるだけで、ちっとも深まらないわけです。これは授業の中身がないということなんです。授業に濃厚な中身があれば、一対一の中にみんなが入ってくるわけです。

『授業の限界と可能性』

林竹二の授業は、写真等の記録もあります。その授業の子どもたちの表情からは本当に集中している様子が見て取れます。林竹二の授業を受けた子どもは「ぼくは、林先生に、べんきょうをおしえられて、はじめて、人間はいったいなんなのかという、ぎもんをかんじた。林先生に、ぼくは、このいち年間、人間のことをおそわりたかった」と感想を書いています。
こうしたところからも、講義形式で、一人の子どもとの一対一との対話でもみんなが入ってきて、しっかりと子どもを高みに登らせていることがわかります。

では、なぜ林竹二にこのような授業ができるのでしょうか。それは、やはり林竹二がソクラテスの専門家であり、対話での学びの専門家でもあったからでしょう。対話の技術を持っているからです。
また、前の記事でも紹介しましたが、授業観の転換ができてもいるからです。
斎藤喜博全集の解説に次のような文章を書いています。

私は、斎藤さんが、授業を、教材に媒介された、教師と子どもたちとの対決として捉えておられることに、ソクラテスに通ずるものを感じています。ソクラテスの教育の方法である「問答」は、その本質において反駁なのです。ソクラテスは質問によって相手の意見を引出し、これを仮借のない吟味にかけます。その結果はいつも、どの意見も維持しがたいことが、吟味をうける人に、明かになることで終わります。プラトンの書いた「ソクラテスの対話」は、すべて結論が得られないで終わっていますが、それはソクラテスが、知識は授けられるものでない、自ら探求し自らさぐりあてるほか所有できないと信じていたことと無関係でないでしょう。(強調引用者)

『斎藤喜博全集 13巻』の解説

このように、林竹二は「自ら探究し自らさぐりあてる」ことができるよう、子どもに問いかけているのではないかと思います。子どもたちも、それを探究したい、さぐりたいと思うから、一対一の対話の中に40人が入っていくのでしょう。

昨年もいくつかの授業を見ました。「対話的な学び」を取り入れなければいけないから無理矢理入れた、というような授業もかなりありました。
もう答えが出ているようなこと、話し合っても結論が出そうにないこと、そういうことでも「となりと話し合ってみましょう」と教師が指示をしているのです。
このような授業を見ていると、やはり「対話の質」が重要だと感じます。
そして「対話の質」をあげていくには、「問いの質」も大きなポイントになります。
子どもが解決したいという「問い」があれば、自然と対話をするようになります。

子どもたちは日常でもゲームの攻略法など、友達と対話を通して解決しています。それが授業になると、とたんに対話から離れていきます。それは、「解決したい」という意欲がないからでしょう。教師から言われたから解決しようとする、そうなっているのです。それでは質の高い対話にはなりません。

「対話的な学び」については、大賛成です。広まるのもうれしいことです。でも、普及してきた次は、「質」について考えなければいけない段階に来ているのだと感じています。

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