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「学び」の過程に、間違いや失敗は必要です-オリンピックで思うこと

オリンピックでは、体操の内村航平選手は残念でしたね。
 私は、彼らを見ていて思うのは、
「すごいメンタルだなあ」
 ということです。

 私がやってきたのは、サッカーです。サッカーは、試合で少々ミスしても許されます。むしろミスをするギリギリのチャレンジの方が評価されることもあります。ゴール前で相手と1対1で、ここでチャレンジしないでパスを回してしまうと、そのほうが厳しく批判されることもよくあります(その昔のジョホールバルでの岡野選手もそうでしたね)。

 ところが、体操はミスをすることが許されません。オリンピックに向けて血の滲むような努力を4年間続けてきても、ちょっと転んだり、落下してしまうと、その努力が報われません。本当に強いメンタルでないとできないですね。

 試合中にミスを許されない体操ですが、練習中はたくさんのミスをしているはずです。何度も落下しながら鉄棒の練習をして、何度も転びながら、床の練習をしているでしょう。
 私たちのサッカーもそうです。シュート練習でもゴールの枠を外すこともよくありミスだらけです。それでも、そんなに問題には思いません。
 なぜなら、「できないことをできるようになるために練習する」からです。
 ミスをしたくなければ、手を抜けばよいのです。少し力を抜いたシュートならば、狙ったところにいきます。鉄棒も簡単な技だけにすればミスをしません。
 でも、それでよいのでしょうか。やはり、できないことにチャレンジして、それを乗り越えるところから成長が始まります。それをわかっているから、ミスを何度もしても、それほど問題には思わないのです。(時々、つまらないミスを怒鳴り散らすコーチもいますが)。むしろチャレンジしない方が問題なのです。そのチャレンジを積み重ねているから、自信をもって戦えるのでしょう。強いメンタルの背景には、それがあるのだと思います。

 これを授業に置き換えてみるとどうでしょうか。授業というのは、スポーツで言えば、練習です。小テストも、その範疇だと思います。でも、教師にあてられて、答えられないとなんだか悪いことをしているような気持ちや恥ずかしいという気持ちにもなります。小テストでもそうです。
 スポーツの練習とはまったく違いますね。

 サッカーのシュート練習などは、みんなが見ています。それでシュートを外しても恥ずかしいとは思いませんし、それを笑うようなチームメイトもいません。そして自分では「もう少し踏み込めばよかったかな」と振り返って、次にはできるように修正していきます。
 それは、「学び」も、「授業」もそうなんだと思います。

 最初からわかるならば、授業をする必要はありません。
 「わからない」ことを「わかる」ようになるために授業があるのです。
 そしてどんな天才であっても「わからない」から出発して「わかる」ようになっているのです。その過程で、いくつも間違いや失敗はあるでしょう。大事なのは、その間違いや失敗から何を学ぶかでしょう。

 授業がうまいな、と思う教師は、こうした間違いを活かすのがうまいですね。筑波大学附属小学校にいらっしゃった正木孝昌先生は、分数の足し算の授業で、通分しないで、分子同士、分母同士を足してしまった子どもを取り上げて、それをクラスで話し合わせました。授業の後に、「君が間違えてくれたおかげで、みんなが分数の足し算を理解することができた。ありがとう」と子どもに伝えます。その子は、間違えたことが褒められたので、複雑な気持ちだったでしょう。でも、こうした繰り返しが、間違いや失敗から学ぶクラス、授業をつくる土台ができていくのです。

 『教室は間違うところだ』(蒔田晋治)という絵本がありましたが、まさにそういう教室であってほしいと思うのです。

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