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教育観、授業観を転換するということ

今の教育界のキーワードに、「主体的、対話的で深い学び」や「『個別最適な学び』と『協働的な学び』の一体的な充実」、「探究的な学び」などが挙げられます。基本的には、私は賛成の立場です。
「基本的には」と述べるのは、「このままで大丈夫なのだろうか」という懸念もあるからです。

そして、そうした取り組みは、決して新しいものではなく、今まで何度も出ては消えていったもののように考えております。

例えば、及川平治は、その主張である動的学習について次のように述べています。

いまここに子供が蜻蛉を見た。「ああ取りたいなあ。」という欲が起こった。そこで過去の経験からわり出して手で掴もうとする。「やあ逃げた、しまった。」と、これから帽子を持っていってかぶせた。これはまれには取るけれども容易には取れない。「何とかしてもっと近づかないでも取る方法はあるまいか。」と考えて竹の輸に前掛けを引掛けて作った。これは前よりはよほどよいけれどもどうも風の通りが悪い。そこで今度は網を持ってきて輪に掛けて取った。これならばだいぶ取れる
と、こういうことになるのであります。そのときにおいてこの蜻蛉の取り方、蜻蛉を取るための活動過程は題材であります。この蜻蛉の取り方という知識を子供が自分で構成したのであります。
(中略)
 静的教育では、トンボをとるという学習では、捕虫網の「形態、構造、種類、効用を覚えたか。誰それいってみよ。まとめていってごらんなさい」という学習になります。しかし、「そうしてまとめるときにはよくできる子供ばかりよくやって、劣等生には在学中一ぺんもまとめたことはない」となります。

及川平治『分団式動的教育法』

これは、1921年の八大教育主張講演会で述べられたものです。今から100年以上前です。
この動的学習の例は「探究的な学び」とも言えるものではないでしょうか。

ちなみに八大教育主張講演会の登壇者とテーマは次の通りです。
 樋口長市 - 自学教育論
 河野清丸 - 自動教育論
 手塚岸衛 - 自由教育論
 千葉命吉 - 一切衝動皆滿足論
 稲毛金七 - 創造教育論
 及川平治 - 動的教育論
 小原国芳 - 全人教育論
 片上伸 - 文芸教育論
私が、まったく読んだこともない方もいますので、断定はできませんが、それぞれ今に通じるものがあると思います。

次は、奈良高等女子師範学校附属小学校の、戦後の発表です。いわゆる奈良プランと言われるものの元となったものでしょう。

標準的な時間割は一応立てられてはいるものの、それに固執するのでもなく、また無視するのでもない。要は仕事と相談し、時計と相談することである。特に水曜の自由学習の日は時間割なしの日で、朝から一切が児童の自主的態度によって運ばれる。

奈良高等女子師範学校附属小学校『学習叢書 わが校の教育』

子どもが、自身で学習の計画を立てて、自身で学習を進めていきます。今で言うところの自由進度学習のさらに上をいくものではないでしょうか。
私は、この『学習叢書 わが校の教育』にお名前のある先生の仕事をお手伝いさせていただきました。また、当時のこの学校で学んだ方から直接お話しを聴いたこともあります。本当に自由で、「今日何を勉強しようか」と友達と相談しながら登校していたそうです。

また、小原国芳は、

考えてみれば、人間ほど個性差の大きいものはけだし、宇宙間にないと思います。何物ともかけががえのない本質を持っとる上に、質において、量において、深さにおいて、速度において、時期において、全く千変万化です。同じカリキュラムや、同じ時間割からが恐しい束縛ではありませんか。
(中略)
 小学部、中学部、高等部ではすでに、時間割なども撤廃して、児童、生徒たちはメイメイの計画をたてて、めいめいの進歩と深さによって見る目も美しく、ドシドシ、真剣な自学を進めています。バーカスト女史が「児童大学」と称したほど。

小原国芳『全人教育論』

これも、1921年の八大教育主張講演会での講演をもとにしています。小原国芳の玉川学園でも、こうした時間割をなくして、前段にあるように個に応じた学びと後段の自由進度的な学びが実現されていました。

このように、今の教育界で「新しい」とされている取組も、それぞれルーツが過去にあるのです。

それが、今まで何度も消え、そして提案されることが繰り返されてきました。
大正時代の新教育運動、戦後の新教育運動、そして今の教育(細かいのはまだまだあります)。
たまたま読んでいた本に大正新教育運動の地方でも普及について書かれていて、例えば手塚岸衛は栃木県出身なので、栃木では全県をあげて多くの教師が手塚の学校へ視察に行き、それぞれの学校で、その実践を取り入れていたそうです。そのような熱とエネルギーが当時はあったようです。
(手塚が設立したのが自由が丘学園で、その後、黒柳徹子の「窓ぎわのトットちゃん」の舞台となったトモエ学園に引き継がれています)

それが、なぜ消えてしまったのでしょうか。
大正新教育運動については、戦前、軍部の圧力もあったようです。木下竹次も奈良高等女子師範学校附属小学校を軍部によって追放されました。
戦後新教育運動も這い回る経験主義との批判もされました。
ただ、それだけが原因なのでしょうか。

私は、その原因の一つに、教育観、授業観があるのではないかと思っています。

東井義雄も「『新教育』のおかした誤謬」と題して次のように述べています。

 戦後、「経験学習」ということが言われ、「生活単元学習」ということがいわれた。「生活カリキュラム」の論議も花咲いたことがあった。そして、結局、「学力低下」が問題にされるような結果が生まれた。とても大じな着眼をしながら、なぜ、このことがよい結果を生み出さなかったか。
 私は「学習」らしいことはあったが「授業」がなかったからだと言いたい。「授業」がなかったということはどういうことなのか。私は、「授業」がないということは「教師」が仕事の中にいないということだと思う。教室に「教師」がいても、いないのと変わりないような仕方でした教師がいなかっということだと思う。


「私たちは、頭のどこかでは『自発性の原理』を考えている。口でもそれをいう。しかし、実践を実際に支配し、行動を現実に支えているものは、案外、古い教育観であり、古い授業観なのではないだろうか。

『東井義雄著作集4』

私は、本当にこの通りだと思っています。生活科や総合を批判する教師の多くは、知識だけの学力観と、それを教えるだけの授業観のように感じています。
そして、多くの教育者は、その授業観、教育観の転換を述べます。

例えば、林竹二は次のように述べます。

いま求められているのは、根本からの授業観の転換です。授業が一定のことを教えて覚えさせる仕事ではなく、深いところにしまい込んである、それぞれに形態の異なる子どもの大事な「たから」を探し当てたり、掘り起こしたりする仕事(教材はその道具なのです)なんだということになってくれば、教師の活動はひじょうに違ったものになるし、教師としてもひどくこれは楽しい仕事になるだろうと思うんです。

林竹二・灰谷健次郎『教えることと学ぶこと』

林が「いま」と言ったのは、一九七四年のことです。
斎藤喜博は、林竹二と波多野完治との鼎談で、次のように述べています。

授業に対する概念が変わってこなければ、そこでたいへん意味のない労役を子どもにさせると思うのですよ。意味のない労役を五時間やれば、いっそう子どもは苦労だから、登園拒否、学校拒否の子どもが、もっと出てきてしまうでしょう。

斎藤喜博『授業の限界と可能性』

中野重人先生は、生活科の実施の頃に、次のように述べました。

その生活科授業づくりにあって、教師の役割、教師のかかわりが、問題にされたのである。教師は教える人、子どもは学び覚える人という伝統的な教師観、子ども観の見直しである。それはいうまでもなく、授業観の変革を意味している。

『生活科のロマン』

他にも、多くの教育者が授業観、教育観の転換を主張します。
福沢諭吉も「学校はものを教えるところにあらず」とまで述べます。
それでも変わらないのは、知識として「授業観、教育観の転換の必要」を理解していても、実際のところでは、東井義雄が指摘した「実践を実際に支配し、行動を現実に支えているものは、案外、古い教育観であり、古い授業観なのではないだろうか」となっているのではないかと感じています。

それは、大正時代ですが小原国芳も感じていたようです。

某県の小学校長です。一校十何名かのすべての先生を引き具して速記者の一名を伴って、明石の女子師範へと参観に行かれたそうです。帰校して、某先生の国語教授の速記録を示して、今、この通り授業せよとのことだったそうです。
聞いてあきれます。動的学習や分団学習、必ずしも悪いことはなかろうが、どこでもそれを以てとはただ驚くの外はない。 一参考とはなかろうがスベテではあるまい。如何なる名授業であっても、ところと時と人とを異にしては常に教授は異なるべきはずだし、 また一言一句も違わぬような教授ならウソの教授であり死んだ教授というべきです。録音機でもよい訳ですが録音機には教育は出来ませぬ。教育はそんな安価なものではない、教育するには生きた「人」がいる。かくの如く、その本質を捉えないで形体に心酔してる県が二、三でないようです。これは必ずしも本家本元が悪いという意味では決してない。 末流の罪を責むる意味です。それにしても県郡視学や小学校長の頭の改造を切実に望んで止まない。

小原国芳『全人教育論』

明石師範の及川平治の学校を訪問して、その通りに授業をしろというのですから、及川平治の主張を理解しているのか怪しいですね。

さて、この小原の主張に、私の今の教育への懸念が端的に現れています。
1つが、「この通りの授業をせよ」というところです。自由進度学習、個別最適な学び、そうした実践を形だけまねるということが、多く出てくるのはないかということです。
形式だけを取り入れて、実際の子どもは置き去り、というようなことです。2つめが、「録音機には教育は出来ませぬ」です。大正時代にも、こう言われているのですが、今は、そのまま「動画」「ICT」に言い換えることもできそうです。

そうしたところからも、新しい取り組みを導入する前に、授業観、教育観を転換していかなければならないと思うのです。

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