「教え上手」は「ヒントの出し方上手」。
今日はQさまの3時間SPを追っかけてたのですが、
そこでのクイズの出し方がすごく興味深いなあ、と思うポイントがありまして。
徐々に難易度が上がっていくクイズに一人一問ずつ順番に答えていき、6人中2ミスしてしまうと失格、というステージがあったのですが、
序盤〜中盤の、ここで1ミス使っちゃうようだとちょっと厳しいかも、というあたりのパートの難易度調節が絶妙だなあ、と感じたんですよね。
たとえば、
渋沢栄一がかねてから文通をするなどゆかりのあった、辛亥革命などで知られる人物は誰?
という問題。
(ちょっと問題がうろ覚え…。後でTVer見て確認しなきゃ)
答えは孫文ですね。
中高あたりの歴史の授業が記憶に残っていれば、そこまで超難問というわけではなさそうな問題ですが、
これは「辛亥革命などで〜」という誘導があってこその難易度。
「ゆかりのある人物」だけだと広すぎて絞り込むための情報が必要だし、そうでなくとも辛亥革命のほうの知識さえあれば、極端な話、渋沢栄一本人のことを全く知らなかろうが推測で解けてしまう。
ただし、近現代の世界史がすっぽり抜けてしまっているようだと、
辛亥革命というワードだけで人名を引っ張り出してくるのは困難、
そうすると途端に掴みどころがなくなってお手上げの問題になってしまう。
この問題に限らず、問題文に巧妙にヒントを張り巡らせてあるので、
一見すると難易度帯は低めに見えてしまうけれど、
問われている知識そのものは下手したら初見のものも多い、という出題が多いような印象に感じました。
番組としては、あんまり安パイに解けすぎてもつまらなくなってしまうし、
かといって誤答がかさんでしまうと番組として展開が進まない。
そして何より、視聴者を置いてけぼりにしてしまってもいけない。
回答者の知識量の予測と、番組的に展開が少しでも劇的になるように…!という読み、そして視聴者にも配慮した難易度帯、というところのバランスでさじ加減されているのでしょうが、
これは何もクイズ番組に限らず、日常の学習とかの場面でも同じことがいえるよなあ、と、問題を解きながら感じていたのでした。
うろ覚えぐらいの知識が、何かの拍子に引っ張り出されて答えを出せたときはすごく気持ちいいし、
ストレートに構えると分からなさそうな問題でも、誘導部分から答えを導き出せれば「そうなんだ〜」と新しい知識が自然と頭に入ってくる。
知識問題に限らず、数学の解法とかでも、同じことがいえるかもしれません。
今持っている知識から、まだ未知の情報へと知識の連鎖がつながる。
川に置かれた飛び石のように、ひょいひょいとステップを渡っていけるかどうかは、その「飛び石の置き方」、
クイズで言えば出題側のヒントの出し方、補助線の引き方によって大きく変わってくるのだろうなあ、と思うんです。
ヒントの出し方が、わざとらしくなく、でも無理ゲーでもない、
上手なステップの刻み方をしていれば、
答える側・学ぶ側は、自然とそのステップを踏みながら、無理なく知識を積み上げていくことができる。
何かを教える側からすれば、
相手の知識量を見極めて、ちゃんとジャンプできる場所に、次の石を置いてあげる。
その石を置く間隔があんまり詰まっていると、学んでいる側は成長が見えづらくておもしろくなくなってしまうし、
逆にあまり広すぎると、うまくジャンプできなくて挫折してしまう。
きっと教えるのが上手い人というのは、
この「石の置きどころ」というのが、狭くもなく広くもなく絶妙なところ、
一番心地良くステップを踏める場所に置くのが上手い人なのだろうなあ、と思います。
逆にいうと、その「石の置き方」に配慮がないと、
学びというものは途端に苦痛で、おもしろみのないものにも変わってしまう。
勉強の好き嫌いみたいなところって、きっとそういうところからも変わってくるものだと思うし、
私は幸い勉強は好きなほうなのですが、
それも周りにいた人たちが、きっと「いい石の置き方」をしてくれたからなのだろうなあ、と思います。
だからこそ私も、どんな分野であれ、次にパスを渡す人には、学ぶことの楽しさを知ってもらいたいし、
その楽しさを伝えられる、パスの出し方をしたい。
そのためには、きっと「パスの出し方」にもコツがいるだろうから、
そのへんもちゃんと学んでいかないとなあ……。