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時には敢えて、「共感」にあらがってみる。

今日は、タイトルでちょっと気になった、とあるweb記事から。

「共感にあらがえ」というなんとも刺激的なタイトル。
まだ私も全部は読めていないですが、でも書いてあることは本当にごもっともなことばかりで。
この「人とつながりすぎてしまう」時代、
「共感」というキーワードは誰にとっても切り離せないものだから、
きっと何かしら、考えさせられるものがあると思います。

仕事柄、私も「共感」という言葉をよく使うし、
それを普段は最大級にポジティブなものとして扱ってきました。
でも、本来私たちを勇気づけ、前進させてくれるはずの「共感」が、
時には誰かを絶望の淵に追い落としてしまうかもしれない。
何かに「共感」することは、別の何かに対しての「分断」「対立」を生む引き金にだってなりうる。
そう考えると、安易に「共感」という言葉を使うのが、ちょっと怖くなります。

自分の考えを誰かに共感してもらえるのって純粋に嬉しいし、
ネットの海の中から自分が共感できる考えを見つけると、「同じ考えを持っている人がいるんだ!」と、これまた嬉しくなる。
でもこれって裏を返すと、
何かが他人に共感してもらえなかったときに、「自分って間違ってるんだろうか…?」と不安になり、
共感の輪に入れなかったときに、「こんな考えを持ってる自分って大丈夫なんだろうか…?」と疑心暗鬼になる。
そんな危険性も孕んでいるのかもしれません。

人は一人では生きていけないから、
誰かとの関係性をまったく無視していることはできないけれど、
かといって他人との関係性ばかり気にしすぎてしまうと、
自分が自分のものではなくなってしまう。
この塩梅は、なんとも難しいですね…。
「他人は他人、自分は自分」とはいっても、本当にそれを万事貫き通してしまうと、本当に孤立してしまうから、それも本末転倒な話で。

だからこそ、ときどきこういう投げかけ、問いが必要なのかもしれません。
問いをもらって、ふと立ち止まって、
自分の今の立ち位置とか在り方って、本当にこれでいいんだっけ?
と、少し軌道修正しながら、また進んでいく。
軌道のことばかり四六時中考えているのも、それはそれで疲れてしまうから、あくまでときどき、気づいたときに、ぐらいがちょうどよさそうですね。

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