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「変革」という言葉に抱いた違和感。

とある起業家の知り合いが、新規事業を構想しているとのことでFacebookに投稿していたのですが(どうやらピッチで賞を取ったらしい)、
その一節、とある表現に、ちょっとした違和感を抱いてしまいまして。

どんなものかというと、(タイトルで一部ネタバレしてますが、)
「教育に変革を起こす」
という表現で。

私も仕事柄、
「教育」とか「地域づくり」みたいな分野に関わることが多いのですが、
これらのテーマに対して、
「変革」とか「革新」みたいな言葉を組み合わせることには、
抵抗とまではいかずとも、いくぶん違和感を感じます。

というのも、
「変革される」側の心情や想い、というのは、
これらの言葉で表される営為の中で、どの程度考慮されているのだろう?
そう感じてしまうんですよね。


「変革」というのは、あくまで「する」側が主語になる、
「こちら側」が主導して、何か変化を起こしていく、という意味合いが強い言葉だと思っていて。

一方で、「教育」とか「地域づくり」といった分野において、
主役になるべきは、誰か。
それはあくまで、教育を受ける生徒であったり、
地域に暮らすひとりひとりの住民であったり。
「こちら側」というよりむしろ「あちら側」の人々だと思います。


「変革」を起こそうとする側には、
高い志があり、壮大な夢・目標・理想があります。
一方で、まだまだ社会や現場が変わっていかない、そんな問題意識や、
社会が理想に追いつかない、悔しさ・焦りに似た感情もあるでしょう。
そんな「変わっていかない」人・社会を、
自分たちが描く方向性へと導く、変えていくことで、
より良い社会が実現できる、理想とする姿を現実のものとできる。
そういった強い想いが、彼らを突き動かしているのだと思います。
その想いや、考え方は、決して間違ってない。

でも、こうも思うんです。
視点を変えて見たとき、
そういう人たちに「導かれる」「変えられる」人たちは、どうなるのか?
彼らも何らか持っているであろう、
想いや意思、考えというのは、一体どのように扱われるのか?


私たちは、
一人ひとりがこの社会を構成する「n分の一」の存在であると同時に、
一人ひとりが、ほかに二つとない「オンリーワン」の存在でもある。
そんな「オンリーワン」としての在り方を捨象して、
「より良い社会」実現のためのワンオブゼムとして、彼らを十把一絡げに捉えてしまってはいないだろうか?

「変革」とか「革新」といった言葉に違和感を感じるのは、
そういった思考に、無意識に抵抗を覚えているからなんだと思います。

主役は、こちら側ではないし、
我々は導くべき答えを持っているわけでもない。
答えはすべて、一人ひとりの心の中にあるし、
「教育」とか「地域づくり」に関わる我々に何か役割があるとしたら、
一人ひとりが内発的に持っている「自分だけの答え」を表に出して、
そこに自ら向かうための力や武器、勇気を持たせてあげること。
そんなふうに考えています。

自分自身の仕事への向き合い方としても、すごく重要な価値観だし、
ついつい「自分を主役」にしたくなる、してしまいがちになるからこそ、
折に触れて思い出していきたいキーワードだな、と改めて思いました。

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