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ただ息災であれ、と願うだけ。

先日カップスターを食べたら、
蓋の裏に出てきたのが、この方のサイン。

別に推しというわけではないのですが、
北川悠理さんとの「譚」の活動もあって、
ちょっぴり気にかけてしまうメンバーの一人ではあります。

残念ながら、北川さんの卒業までに「譚」のパフォーマンスを再度見ることはかなわず…。
神宮球場での事故が昨年の8月末ですから、
表舞台から姿が見えなくなって、もう丸1年以上が経ってしまいました。

もちろん、表舞台で活躍している、輝いている姿を見られるにこしたことはないのですが、
特に、こうやって長期の休業や卒業など、
表舞台での姿を見られないとなると、
もう、贅沢なことは言わないから、
ただただどこかで元気に、幸せに、日々健やかに過ごしていてほしい、
そう願ってしまうのは、
思い入れの浅さなのか、深さなのか、どちらなのでしょうか。

ただ息災であれと、ひそやかに願うこと、
これを以て「応援」と言えるのかどうか、
人によっても意見が分かれるところではあると思います。
目に見えなければ届かない、届かないのであれば応援している意味はないんじゃないか?
確かにそうかもしれません。
応援する側のエゴは、もはや応援ではない。

ただ、目に見える態度には現れずとも、気に留まる存在ではあって、
その人を取り巻く喜怒哀楽を、自分自身も分かち合いたいと思う。
そう思う感情は、ちゃんと少なからずあって、
そういう「応援」の一歩外側にある心持ちにも、ふさわしい言葉があるといいんだけどなあ。
そんなことも考える、今日この頃です。

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