努力 未来 Beautiful star

 休みの日に、蓮見重彦『祖語の誘惑』を読んでみた。装置としての大学というものを考えながら、知の目的ないし自己目的化について考えさせられた。
 そのときはゆっくりすることを目的に鳳明館の一室にいた。備え付けのお茶を飲みながら、ページを繰り、文章を反芻していた。
 手術をした目がさすがに疲れたので、第二章を終えたところでしおりを挟んだ。ふと上げた視線の先には掛け軸があり、そこには「無知を恐れるな 誤った知識を恐れよ」と書かれていた。
 なるほど、ここが本郷かと思った。
 会ったこともない、蓮見重彦総長の声が聞こえた気がした。

 学ぶこととは何ぞやと言うことに思いを馳せたとき、同時に学校という教育システムで何を得たかを考えていた。
 自らが日本の教育システムで何を得たかというと、(それなりに)系統的な知識の詰まった本(≒教科書)を追って枠組みを作れば、その中の何かを深めたり、枠組みと枠組みを結びつけることで深まることがあるという認識だろうというぼんやりした感覚はある。

 佐々木チワワ『「ぴえん」という病 SNS世代の消費と承認』という本を読んだ。その中で、売春により自らが傷ついて苦しんで得たお金を推し(そこではホスト)に貢がないと意味がないと語る女性のエピソードがあった。宝くじなどで得たお金ではだめなのだそうだ。
 お金に色はないのに何故そういう発想になるのかを考えてみた。
 効率を考えれば、楽に得たお金で推しと楽しく過ごす時間を買う方が効率がよいとするのが妥当であろう。自らの苦しみなどで色付けされたお金でないといけないという価値観は効率などの生産性ではないところに基づいていそうだ。
 そう思ったとき、センター試験の数学対策の勉強をしていた際に「Excelを使えば一瞬でこんなの処理できるのに」と呪詛を吐いていた知人を思い出した。センター試験ではExcelは勿論、電卓や定規も使用禁止である。そういうルールだからである。
 「そういうルールである」というフレーズはあちこちで耳にするが、学校ほどそれを聞いた場所もない。学校には目的があまり判然としないルールがあり、それらは恐らく以前は「管理の手間を省く」という観点からの生産性ないし妥当性があったのだろうが「管理のための手間を生む」というものになり果てたものと化しているケースも多々あったように思える。それほど学校というものは、生産性という労働のルールとは異なる価値観で動いている。

 では学校における価値観とは何かと考えたときに「勤勉さによる因果応報」とでもいうべき報徳思想のバリエーションが根源にあると私は考えている。かみ砕いていえば「まじめに努力すればよいことがある」とする考え方である(世界公平仮説)。
 「よいこと」の定義はさておき、ここにおける「まじめに努力」の内容としては、先ほどのセンター試験におけるExcelのエピソードと整合性を取るため、読み書きそろばんといったアナログの能力を自ら実行するということでよさそうだ。
 アナログの能力の実行はそれ相応の負荷を心身にかける。その身体的な不可に限定していえば、Excelなどデジタルツールによる拡張された自己の能力よりはるかに高負荷である。
 漢字の書き取りをたくさんやった人ほど、手計算を間違いなく大量にできる人ほど評価される小さな社会において、漢字を書くことや手計算が苦手な人にとってそれはただの意味のない苦行である(読み書きの能力や基本的な計算の能力はある意味で「できて当然」というトートロジー性があるがゆえに、目的が理解できないケースは多々あると考えられる)。その小さな社会ではやったことの目的や意味、意義が分からなくても、「まじめに努力」すれば行為自体が評価される。評価されるということは、そこに価値が生まれるということである。
 上記のことから、苦しいことで得られたものの方が、楽して得られたものより価値が高いとする価値観が説明できると考えられる。
 一般的に推しというものは自らの水平より高いところに位置づけられる。そのため、より価値のあるものを贈ることそのものに価値が生まれる。そして受け取った側は「こんなに頑張って得たものをくれるなんて……ありがとう!」となる、一種の様式美が生まれる。それがリアルに会える存在であれば、その様式美に体感できるリアクションが付加されると想像でき、それこそが価値として自らに還元されるのであろう。

 さて学校ないし教育機関という装置の目的とは何であろうか。
 『祖語の誘惑』を読みながら私なりに言語化してみたところ「他者と共同して、自分を疑い続け、パラダイムシフトを繰り返すためのダイナミズムの場」となった。尤もこれは大学以降の高等教育機関に限定したものであり、高校まではその片鱗を感じさせる程度でよいのではないかという思いもある。ただ「まじめに努力すればよいことがある」とする考え方を第一の是とすることは私には受け入れられない。「まじめに努力すればよいことがある」というお題目と、勤勉に自らを傷つけて推しに貢ぐという行為は地続きである。

 村上春樹『ノルウェイの森』で努力と労働の差異について言及しているシーンがあった。努力は主体性と目的を有するという定義に、私は賛同する。ここにおける労働というものは消耗と読み替えてもよいだろう。本来色のないものですら、物語による価値の高低を付けられる今、学校における学習とされるものが消耗になっていないか、ふりかえってみてもよいのではないだろうか。

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