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関ヶ原の戦いと明治維新の連続性
今回は幕末について。
坂本龍馬や土方歳三など、歴史上の著名人も多く、戦国時代と並んで日本史上もっとも人気のある時代ですが、一方で国内の対立構図がわかりにくかったりしませんか??
まぁ、わざわざこの記事に目を通してくれるような歴史好きの方は「なんだ、そんなの知ってるよ」と思われるかもしれませんが(・・;)。
が、高校科目「日本史A」(大学受験で使われる4単位科目「日本史B」に対して、それ以外の生徒向けの2単位科目。)では近現代を重点的に学ぼうということから、前近代の部分はほぼカットされて幕末あたりから本文の記述が始まっていて、少なくない高校生が初っ端から挫折しています(笑)。←いや、笑い事じゃないですね。
これ、思うに歴史の途中から学び始めることに加えて、短期間で政局が目まぐるしく変わっていくという幕末の情勢に原因があるんじゃないか?
そこで、時代を理解する上での軸を1つに絞ってまとめていこうと思います。
国内勢力の対立構図は、関ヶ原の戦いの再現
江戸幕府に代わって新政権樹立を目論む勢力として、長州藩・薩摩藩・土佐藩あたりがよく知られていますよね(歴史好きじゃない人でも、名前くらいは聞いたことありますよね)。
最終的に3藩とも幕府を打倒して明治新政府を打ち立てる側になるんですが、幕末の動向を理解する上で問題になってくるのが3藩には温度差がある、という点です。
先に大まかな藩論をいうと、長州は最初から幕府と敵対的、薩摩は幕府寄りから討幕(倒幕)へ転換、土佐はギリギリまで幕府寄りだった、という感じです。
で、本記事のタイトルにもある通り、これは関ヶ原の戦いとリンクしています。
長州藩の毛利家は、西軍の大将格として徳川家康率いる東軍と対抗した大名家です。敗戦により、領地(収入)も3分の1程度に削られています。それゆえに徳川に対するライバル意識がすごいです(笑)。
薩摩藩の島津家は、西軍に属したものの主力を担っていたわけではなく、領地も削られていません。そうしたことから、外様として幕府中枢からは遠ざけられながらも徳川を恨むほどではない、といったところでしょうか。幕末の動乱に乗じて発言力を高めようと幕府に擦り寄るものの、文久の改革で権力を握った一橋(徳川)慶喜と対立して幕府と敵対するようになります。
土佐藩の山内家は、東軍についたことで国持ち大名へと躍進しました。これは外様大名としては異例の大抜擢だったため、山内家は幕府に恩義を感じていたようで、大政奉還を献策するなど、最後の最後まで徳川消滅を回避しようとしました。
このように、各藩各様の歴史をもちながら、結局は討幕という1つの方向に向かって進んでいくことになりました。
歴史を見る時って、結果にばかり着目しがちですが、今回のようにプロセスに目を向けるとそれまで見えていなかったものが見えてきたり、「あぁ、そうか!」と納得して腑に落ちる、ってこともあると思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。