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学びの思いに応える

『憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず。一隅を挙ぐるに、三隅を以って反せずんば、則ち復せざるなり。』

学ぼうとする者には、疑問を解決したい思いが溢れんばかりで、そして、言いたいことがあるのに、上手く表現できないほどもどかしい気持ちが高まるほどでないと、教え導くことはしない。一隅を示すと残りを自分で類推して考えられるような人物でなければなお教えることはない、という意味です。

実は「啓発」という言葉はこれが語源だそうです。この言葉は愛情に溢れつつもかなり厳しい言い方のようですね。学びたい気持ち、教えてもらいたい気持ちが心に満ちて溢れ出そうなくらい高まらなければ、教えるに値しない・・・何やら今の時代にはフィットしない感じですよね。

学びに限ったことではないですが、「与えられて当然」の世になってはないでしょうか。いつからか私たちは、「金を払えばサービスを受けることが出来る権利」を良き方へ使えぬようになっている気がします。そしてサービスを提供する側もいつしか、神に逆らわぬよう、へりくだることしか考えられなくなっているように思えます。

例えば、B to Cの関係でいうと、BはCから財を回収するためにへりくだるサービスを提供し、CはBに対し、財に代わる価値以上のものを回収しようとする。双方、奪うという目的の関係性ができやすくなってきた社会構造があるような気がします。

運輸業でいうと、約20年前は配達先へ荷物を持っていくと笑顔で「ありがとう!」と声を掛けられたり、暑い日は冷たい飲み物をもらえることが多かったそうです。それが今ではほとんどなくなっています。

地域で言えば、自治会やPTAなどの役員さんはボランティアで活動されているのに感謝をされるどころか、例年通りでないことで腹を立てて文句を言う人もいたりします。

要は、「お互いさま」の関係性が薄れてきているということです。

信頼関係を築くには、それぞれが足りないことへの学ぶ姿勢を持ち、それらを明らかにするための努力をすること、則ち「自己を啓発する」ことが大切ではないでしょうか。家庭であれば親と子、学校であれば先生と生徒、会社であれば社長と社員、地域であれば役員と会員、それぞれが、です。

孔子先生とその弟子たちは、まさに自己啓発の師弟関係です。「仁」や「義」や「恕」など、磨き上げた素晴らしい信頼関係があったからこそ、このような孔子先生の厳しくも温かい言葉が正しく伝わり、2500年以上の時を越えて今もなお伝わるのだろうと思います。

私の啓発は、信頼できる先生の教えや、孔子先生の教えをもとに、身の回りにある当たり前を感謝に変えることから始めています。小さな当たり前なら小さな感謝でもいいんです。

もし自己啓発に目覚められることがあるならば、当たり前を探すことから始められると良いのではないかと思います。もちろん、書物は「論語」がオススメですよ^^