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私のメンタルストーリー。

こんにちは、元うつ病鍼灸師 まなです。最近はこの名前もあまり使っていないのですが、私の根本は自分がうつ、パニック障害、自律神経失調症の経験が主なものだと考えています。

ずっと書こう書こうと思いながら進まなかった、メンタル疾患時代のお話。まあ、私のことなんざ・・・と思いながらも、結構共感を得られる場面や、壮絶だったんですねと言われる事から文字起こししてみようと思いました。

長くなりますが、どうぞお付き合いください。

子供時代

私は公務員の父と保育士の母の二女として産まれました。子供の頃は姉の後ろに隠れているような、大人しく、人見知りをする子供でした。
朝がめっぽう弱く、12時間眠り続けることもしばしば。

中学時代も、朝起きない!とよく母親に怒られていました。朝が怖い、という気持ちもありました。でも、なかなか起きることが出来ない。

中学2年の時にはアニメオタクになり、学校以外でも友達が出来るなど別のコミュニティがありましたが、クラスメイトが話している内容が私の悪口のように感じ、人間関係が怖くなって不登校へ。保健室登校をしながら、お昼は友達がお弁当を持って保健室に来てくれていました。2学期後半と3学期丸っと教室に行けなかった事を覚えています。

とにかく、怖かった。
教室に行けない事が。
クラスメイトに何を思われるのか。
無視をされるのが。
そして、みんなが出来ている事が出来ない自分が。

3年生になったら、学校の計らいなのか友達の多いクラスとなり、楽しい1年間を送る事が出来ました。
この時、クラスメイトとなり親友になったのが社労士のゆみです。
ゆみは名前も目立つし、性格もやや尖っている印象でした。が。
実際話をしてみるとすごく話しやすくて、何回も喧嘩したけれど、彼女なりに自分の思ってる事、感じてる思いをぶつける事が愛情表現だったのかなーと、今お互いがもっとわかってきたので感じます。

この頃には夢がありました。

当時の私の夢は「声優」。その為、18歳には声優養成所に進学しようと考えていました。その為にも、高校は資格が取れる学校にと商業学校に進学します。

高校時代は気の合う友達とグループに分かれる感じだったので、クラスのギャルの子達とは合いませんでした💦一方で、部活(演劇部)では仲良い友達がいたのでその子たちとお昼も一緒に過ごしていました。体調崩した時に、一度学校を休んでしまうとなかなか外に出れないのは、この頃も同じでした。

社会人時代、テーマパーク施設

高校卒業する時には、自分のやりたい事のために親を頼ってはいけないと考えていて、商業高校だった事もあり就職することにしました。声優になりたいからお芝居してお金もらえる所へ、と安直な考えで、テーマパーク施設の芸能部へ所属しました。朝6時には起きて仕事にいき、先輩の洗濯物を片付けつつ準備をする。20時には帰宅。月6日休みのうちの4回はお稽古で休みとしてはありません。夜は先輩の飲み会に参加して、コミュニケーションを図る。それでも、楽しかったんです。やりたかった事ができるから。

それでも、気持ちとは裏腹に身体がだんだんと動かなくなっていきました。

朝起きれない、食欲がなくなる、ネガティブになる・・・。そのまま気持ちでカバーしていたら、そのうちに左半身が痺れていきました。車もないので病院にもいけず、騙し騙し仕事をしていたらそのうち持っているものを落としたり足が力が入らなくなってきました。息が苦しくなり、立っていられない。でも、先輩に迷惑をかけてはいけない。私は、あまり人が来ないところで倒れてしまっていました。

救急車が呼ばれ、搬送先の市立病院で一度検査をすることになりました。検査入院で1週間。レントゲン、CT等はもちろんの事、血液検査や肺活量、果ては髄液まで取り検査をしましたが、何も異常がありませんでした。

当時19歳、ドクターに言われた「あなた、そのままじゃ子供産めないよ。頑張りなさい」という言葉が胸に刺さりました。ずっと鍼灸師になるまでその言葉は刺さり、子供を望まない生活をしてきました。今思うと、ドクターとしては励ましたつもりだったのかもしれません。でも当時の私は「そっか、頑張りたくても頑張れないから、私は子供を産めないんだ」と認識をしました。じゃあ、これから一人で頑張って行かなきゃ、と。

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当時の写真。この頃、茨城の別の施設に異動させてもらいました。

某ガス会社受付

体調を壊し休職を経て復職もしたのですが、一身上の都合で退職。当時失業保険もよくわかってないので、しばらく休もうと1ヶ月ぐらいプラプラしてました。

当時ボイストレーニングをしてくれていた先生が「喋れて事務ができる人を知り合いが探している人がいる」との事で、面接してもらい採用いただきました。1年の約束で、受付ととあるプレゼンテーションのMCを担当する事に。40代の営業さんたちに説明のダメ出ししたりという、なんとも生意気な時代でした。

この時期は9時〜17時の仕事で、人間関係もよくて大企業ならではの仕事がはっきり分かれていたので、人に私が干渉する事も干渉される事もなく平和だったと感じています。

それでも平和になるとどうしてもうずうずしてしまうたち。今なら出来るかもしれないと考え、関東の小劇団に入ることにしたのでした。

関東での小劇団時代

今ではちょっと知ってる方は知ってる小劇団の旗揚げオーディションに滑り込みをして3ヶ月に1回、1週間講演をしていました。とはいえ、私は3回目の講演で足を負傷(有痛性外脛骨障害)してしまい、足をつくのが辛い状況に。

ミュージカル調だったため、歌はあまり上手でもなく、踊りもできないとなったら辞めるしかないのかと一人悩んでいました。また、この時期には同棲していた彼氏(15歳上)と別れ話もあり、生きていても何もいい事がない、という時期に。痛みと、やりたい事がやれない、何もいい事がない…という思考になり、死んでしまいたい、死んで逃げてしまいたいと考える様になりました。

当時の彼氏には「俺はがんなんだ。死ぬまで一緒にいてほしい」と最終的にはヤンデレになられてしまい(結果10年後の生存確認はできております)、何回も喧嘩した末に家を飛び出し、劇団の女性の先輩の家に1ヶ月ほどお世話になる事に。(本当にありがとうございました)

劇団には所属していましたが、どんどんとメンタル的に辛くなりパニック発作発症。舞台にも立てなくなりました。

じゃあ、掛け持ちしてるバイトが楽しいから、バイトを頑張ろう。と思って劇団をバックれてしまいました。今でも、辞めますが言えなかったことを後悔しています。

ゲーセン勤務時代

ゲーセンってなんとなく面白そう。私ゲームしないけど。と思ってゲームセンターのオープニングスタッフに申し込みしました。「事務もできるなら事務も時々やってほしい」と言われて、やってきたことは無駄ではなかったんだなと感じた事を覚えています。

ゲーセン時代は同年代の子たちとバイト後に遊んだり、高速に乗ってご飯食べに行ったり楽しい日々でした。劇団で足を故障してからは、あまりフロアに出ずカウンターで事務作業をする様になりましたが、それも楽しかった思い出。劇団を辞めた事で、本格的に勤めたいと店長に話しセカンドチーフという役職へ昇格。売り上げ管理や売り上げを出す為にどうするか、スタッフのマネジメントをするなどの仕事になりました。

この頃から、息切れ、動悸、不眠が出始め、パニック発作、痺れ等も出る様に。心療内科へ行ってお薬ももらい始めていました。

みんなが出来ている残業が体力的に出来ない自分。

クオリティーを上げたいのに出来ない自分。

スタッフの教育が上手く出来ない自分を責め始めていました。

当時を知る店長に鍼灸師になってから飲みに連れてってもらったのですが「ヨネはあの頃、いつも怒ってたなぁ〜」と言っていました🤣そう、

「こんな自分にも出来る事がなんであなたたちは出来ないの」「これぐらいの事は一度行ったら覚えて」「やる気がないなら帰っていいよ」

と、言っちゃってたんですよねぇ。。。なので、うつ病を持っている時の「自分が許せないし周りにも攻撃的になってしまう」気持ちは私なりに分かるつもりです。

「こんな自分でも出来るのに何故出来ないの」「もっと努力してよ」「あんたたちのせいで自分の仕事が増える」などと考えておりました。はい。結構、ガチで。

今思うと、生きにくいよな〜って思います。相手は相手で得意な事があって、私に見えてないものが見えていたりする様に、私も私にしか見えないものがある。

それが分かっておらずに、ただ人のせいにしていました。誰にも残業しろとも、しっかりやれとも言われていないのに。スタッフのみんな、大好きだったのに。

結果、二回の休職を経て店長が変わった事から「誰も味方してくれない」と思い込み退職。うつ病・パニック障害の診断が出ていました。

退職時、神奈川で一人暮らしをしていたのでご飯を買いに行くのも一苦労です。電気がチカチカすると気持ち悪くなるし、沢山の色があると頭がパニックになる。その為、徒歩3分のコンビニにも行く事ができませんでした。症状が悪い時にはテレビも付けずにずっと横になっていて、宅配ピザを数日に分けて食べていました。

少し症状が上向きになってきて、生活費も底をついてきた事から派遣のお仕事をし始めました。

派遣事務時代

症状を隠したままなんとか面接に行き、某IT企業の総務に無事採用。当初は色んな方とお話ししたり仕事を覚えたりで大変でしたが、毎日のルーティンとして覚えると割と平和な仕事でした。

慣れてきた頃に、パニック発作発症。前と違って9時〜17時の仕事をしているのに、何故?普通の仕事も出来なくなってしまったの??と、とても辛かった事を覚えています。

この時は部屋からまた一歩も出られなくなり、家の前の公園に行くのも怖い。派遣元の担当者さんが心配して来てくれるも、何も出来ません。電話が何回もかかってくる事が怖くなり、今でも電話が怖くなっています。

もう、何が怖いとかじゃないんです。分からないんです、何が怖いのか。それぐらい頭が混乱していました。この頃にはお薬が1日30錠ぐらいにとっくになっていました。

「あなたのうつ病は一生治らないよ。お薬と付き合いながら共存していきなさい」と医師にいわれ、絶望したのを覚えています。

まだ20代前半、この苦しい人生が一生続くと宣告された時は本当に死んでしまいたい気持ちでした。その方がいっそ楽になれるのでは。薬を沢山飲んでみたり、リストカットしようとしてみたり(勇気がなくて結局出来なかった)、アパートの窓から飛び降りようかなと漠然と考えたり。

それでも、1ヶ月ぐらい休ませてもらっているうちに嵐を超えたのかまた仕事に行ける様になりました。ひとまず、社会復帰だと。

そこからは通常通りに業務をこなす事ができ、日常を送っていたのですが如何せん安定すると他ごとがしたくなって、悶々としていました。好きなことをするには、派遣では給料が足りない。いつか正社員にならなきゃだめだ。ある日、じゃがりこのパッケージが一回り小さくなっているのを見て、「あ、そろそろちゃんとしよう」と思って就活を始めました。(物価が上がるんだなと思って/////)

ゲーセンマネジメント時代

昔大変だったけれど、好きだったゲーセン勤務。今元気だし、もう20代後半にもなるし、今度こそ大丈夫かもしれない。どうせ正社員になるなら、好きなことやりたい。そう思って転職サイトを探したらゲーセンのマネージャー職の募集がありました。しかも、本社は東京なのに、勤務先が鈴鹿。

ここなら、転勤と言って鈴鹿に飛ばしてもらえるのでは?実家付近に帰れる!と思って応募しました。

1/10の確率でしたが無事合格。三重県に戻りたいという要求も飲んでいただけました。当時の社長は、笑っていいとも!でとあるコーナーのレギュラーで出ていたり、リーマンショックを予言していたやり手の社長で、私も大好きでした。

最初勤務先になったのが今住んでいるところの近くのゲーセンだったのですが、ボウリング場もあったので24時間営業。仕事は楽しかったのですが、変則的な仕事の時間や、突然現れた女性社員に反感を持つアルバイトもいました。クレーム対応も当初はうまくできずに、怒鳴られることも。それでも、マネージャーとして頑張らなければ、という思いでした。

広い店内を歩いていたら、足の裏に大きな水膨れが出来てびっくりもしました。また、以前ゲーセンで働いていた事があるというのはスタッフも知っていたのですが、私はフロアで修理をする機会が少なかったのであまりマシンについてもわからない状態。だんだんと「こんなはずじゃなかった」という思いが出てきました。

がんばらなきゃ、と思っているうちにフワフワしてまたメンタル症状は悪化。それでも期日が来たので、三重県に転勤をして三重の店舗を預かる事になりました。この途中で、以前の事故の話につながります。

三重県に転勤後も、働く時間は

月火曜日9時〜17時、水木曜日12時〜22時、金土22時〜6時で日曜日休みと言う変則的なシフトでした。もちろん定時には帰れません。休みはテンポを戻すために使うので、遊びにいく気力もありません。すぐに体調に現れ、また集中力も低下する為、時間帯を9時〜23時までの内で勤務するように変更してもらいました。体力的に持たない自分を責めてる期間でもありました。

それでも友達の結婚式の二次会幹事で知り合った人と友達の友達同士であることもあって結婚を前提にお付き合いを開始。私が時間がないので同棲するようになりました。

この頃の記憶はあまりないので、以前に比べたら安定していたのだと思います。

それでも冬になったらまた視界が狭くなったり、呼吸がし辛くなって眠れなくなったり。せっかく好きな仕事をしているのに、どうしてできないんだ、と言う気持ちがありました。

お薬手帳 加工済3

※当時のお薬手帳。これより過去のは、交通事故で吹っ飛ばしました。

結果、一ヶ月の休職をもらってそのまま退職。休職が終わる頃には、退職勧告とも言える電話がかかってきたので、怖くて退職する意外の選択肢はありませんでした。(今思えばこれってNGですよね)でも、その会社の総務の子がとても良くしてくださって、傷病手当金を調べてくれたり、店舗の事もフォローしてくれていたりしたので本当に感謝しています。

仕事を辞めてしまったきっかけもあって、いよいよ結婚に向けてスタートするのでした。

結婚、離婚。

ここに関しては私だけの問題でもないので、書ける文章が少ないなと思います。今思えば、自分の覚悟が足りなかったんだとも思います。

何があっても相手と話し合ったり、手放す、譲り合うとか。私は白黒つけたい性格なので、その部分ができなかったんだと反省もしています。

その当時は、うつ病は甘え、心のかぜ、気のせいとも考えている方もまだまだ多く、遺伝になるのではないかと言う偏見を持った方もいました。

本当に色々あったのですが、それでもやってみて良かったと思っています。私は、結婚には向かない。(笑)

鍼灸専門学校へ。

ここからはこちらのnoteをご覧ください。

なんせ過去の話で、写真も全然ないのですが過去の経験については全てやって良かったなと思っています。

一貫してずっと思っていたのは、生きていくことがこんなに苦しい物なのかと。世の中の人はすごい、と。

でも、「いつかこの経験は役に立つ」とも思っていました。

その経験を元に、医師の高橋徳先生から言わせると

「過去の経験を武器にして、たくましい」と。

「いつかこの経験は役に立つ」を実行できたこと、思い描いたことは引き寄せるんだなと今でも感じる日々です。

少しでも、今苦しんでる方に光になれば幸いです。思いを書いたので、読みにくい場所もあったかと思いますが、最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!






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まな@元うつ病鍼灸師
鍼灸×産業カウンセラー×心理学×人工知能。 誰かのこころを軽くする、そんな研究費に使用させていただきます!ありがとうございます。