自由って本当によいのか?
支援学校の子どもで、休憩時間にとにかくずっと走っている子が数名いる。
首を振りながら、汗びっしょり走っている。
手をひらひらさせながら、何かを探しているように走っている。
私は、走り回っている方が、解放されて落ち着くのだろうな。と思っていた。
けど数回、その子と共に接しているうちに、「走り回っている時、なんだか不安そう」「ほんとは止めてほしいのかな」となんとなく感じるようになった。
内言語(言葉は話さないけど、意味は理解している)が豊富な子なので、試しに「次体育館行こう」と、少し強引に体育館に連れて行く。
体育館に入っても走り回っている。
私は少し離れたところで、その子の好きな歌を歌ったり、その子の気づきを言語化してみる。その子の空間に入れるように様子見ながら近づく。
しばらくすると、床に落ちてたビニールテープを手に取ったので、「電車だ!」とビニールテープを電車に見立て、一緒に白線に沿って動かしてみる。その子と目が合う。一緒にはいつくばって、一緒に動かしているテープ見ている。汗びっしょり笑っている。
「こっちおいで」とトンネルを作ると、私の足の間を通った!
その子は笑っている。一緒にビニールテープで電車ごっこができた。
20分ほどした後、電車の駅員さんの真似をする私に抱き着いてきて、耳を私の口に押し付けて嬉しそうに聴く。
「こんなに人懐っこく、遊ぶことができるんだ。」
自由にしていいって、嬉しい子もいればしんどい子もいるんじゃないかな。
走っている子の中には、落ち着ける「いまここ」の瞬間を探している子もいるんじゃないかな。
いまここを一緒に探るのも教師のスキルだと思う。
新任の時、ベテランの先生に「〇〇の授業したい?しない?どっちでもいいよ」って言われたことがあって困った時を思い出した。選択や自由は、初めての環境の中では、苦しかった。
「とにかく私の指導の方法を見なさい。私のやり方を全て見せるから、その後どういう指導していくかはあなた次第」と言われた時は、ワクワクした。楽しそうな命令は嬉しい。
私は自由の意味がまだ実感として掴めていない。自由を説明することができない。
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