海と山の見える生活について

2020年、6月。

コロナウィルス騒ぎですっかり世間は様変わりしたが、自身について正直に言えば、生きることや暮らしのディテールを見つめ直すきっかけになった。

家にいることが増えたので、暮らしの中でおろそかにしてきたことと向き合えるようになった。家族との他愛ない会話、近郊野菜やこだわりの調味料で作る食事、定期的な掃除、部屋やクローゼットの整理、お気に入りの家具の配置、ちょっとした買い物。仕事と通勤で擦り減らしてきたものは、時間や体力だけではなかった。

仕事では悩みも多くなった分、前向きに工夫することも増えた。教室での講義が禁止になり学校が以前のように機能しない中で、学生に何を提供すべきなのか。今でも試行錯誤の日々が続いている。それにしても、遠隔講義の必要性は分かるが、まさか自分がYoutuber見習いになるとは夢にも思わなかった。

生きること、とりわけ、災害研究者としてのあり方については自問する時間が増えた。感染拡大の前から、「科学的根拠に基づいて議論することが重要である」という意見は勢力を増していた。しかし、研究者はデータの蓄積を待って精緻な議論を行えば良いが、今まさに感染の脅威にさらされている市民や責任ある立場の人々には、先が見えない日々を切り抜けるための手がかりが必要ではないか。だが、一人の研究者として、災害と感染症にどこまで類似性があるかも分からない中で、果たして有意義な思索ができるのか―――。

答えが出せないまま、ひとまず、感染症の性質を見定めることではなく、感染症が奪う社会の有り様について考えることにした。

災害を理解するためには、社会の有り様を理解しなくてはいけない。災害の被害には広がりがあるからである。人命が奪われ都市の構造が破壊されるだけではない。奪われた家族や友人との絆、職場や学校での日常、通い慣れた店での一時、あるはずだった将来への希望や生活の見通し。災害を通じて人々は多くの喪失を経験する。そして、その痛みは地域や人々の置かれた状況によって様々である。

災害は自然現象ではなく、社会現象なのだ。

災害の被害を軽減し、都市や人間が喪失から立ち上がるための方策について考えるためには、その前提として、暮らしの奥行きを理解することが欠かせない。しかし、果たして自身は日常の暮らしにきちんと向き合ってきたのだろうか――。

こうしたことを考えているうちに、新型感染症について災害研究者の立場からNoteを書くつもりが、思考の範囲がそれを超えつつあることに気づいた。

書くことを通じて、自身が表現したい事柄は明確になるのだと思う。

コロナ後の社会に対する観察の備忘録と、未来の自分への問いかけを兼ねて、神戸暮らしのとりとめのないことを記してみたい。このエッセーを「海と山の見える生活」と題したのは、こうした理由からである。



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