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震災と復興、そして風化

1.震災から10年、そして「風化」

東日本大震災から10年を前にして震災復興に関する報道が増えてきた。
被災地の衰退、生活再建の困難、そして原発事故――。
様々な現場での課題や取り組みがクローズアップされる。

その中でも、この言葉が個人的な関心を引いた。

「風化」

「震災の教訓や復興のあゆみが風化しないように。」
風化を戒めるようなコメントが、画面越しに多くの人々から語られる。
同時に、震災を知らない世代や被災地と関わりの少ない人々に語り継ぐことは、
決して易しくないという声も聞かれた。

だが、
風化しているのは、果たして「震災からの教訓」なんだろうか?
「震災後の人々の暮らし」や「被災地のあゆみ」が上手く伝えられないことが問題なのだろうか?

2.問い直される「復興」

同じような違和感を感じたのは、復興に対する財政支出に関する記事を見たときだった。
例えば、以下のような記事が挙げられる。

曰く、
東北が受けた被害を考えれば、手厚い支援に反論することは難しかった。
事業の中身を精査することよりも、支援を優先する空気に圧されてしまった。
震災から10年が経った今こそ事業の検証が必要だという。

阪神淡路大震災も、10年が経過した時点で多くの検証を行った。
検証には行政の関係者だけでなく多くの研究者が参加して、多様な観点から分析を行った。
詳細な検証は、復興事業の課題や問題点を整理し、後世に知恵を残すために必要なことだった。

それでも、これらの記事が言う「検証」という言葉には、まだ違和感が残る。
「そこに何がしかの不作為があったに違いない」という疑いの眼差しが見て取れるからだ。

個人的な考えを先に書くならば、
これは「復興とはなにか」を巡る誤解の問題だと思っている。

「被災地が日常に回帰し、被災者の生活が平穏を取り戻すこと」
これが復興の目指すところであり、その意味だという考えは、
今や多くの人に共有されているように思う。
だが、果たしてこれは正しいのだろうか。

例えば、以下のような例を考えてみたい。

ある小売店が震災で店を失い、店主は家族だけでなく生業をも失ってしまった。
年齢を考えれば、企業への転職も難しい。
早く商売を再開しなければ、暮らしが行き詰まってしまう。
そこで行政の支援を受けて、補助金を活用し店舗を再建することにした。
商売を再開した初日、店に懐かしい顔ぶれが戻ってきた。
まるで震災前の日常が戻ってきたような気がした――。

上に書いた復興の定義に照らせば、この店主にとって復興は成ったことになる。
以前の日常が再び帰ってきたのだから。

では、もう少し例え話を続けてみよう。

戻ってきたと思った昔なじみは、実は震災で住居を失ったので、県外に転居していた。
店が再開したと聞いて懐かしく思ったので、顔を見にわざわざ来てくれたのだという。
だが、そうした常連の顧客にも、今や新しい生活、新しい土地での暮らしがある。
次第に疎遠になるうちに、店主の住む街から実は多くの人が去ってしまった現実が見えてくる。
地域の需要なくして、小売店は立ち行かない。
数年後、店主は店を廃業することを決断した。
その後の暮らしぶりは杳として知れないーー。

これで小売店の店主にとって、復興は成ったと言えるのだろうか?

一時、かつての日常は確かに戻ったのだ。
後のことは震災とは関係がない。
店主の経営にも問題はあったのだろう。
事件や事故、病気等で他にも苦しむ人々がいる中で、
果たして、震災の時だけ、そんな店舗の再建のために税金を投入する意義があったのか。

こうした批判が成り立たないわけではない。
事業の検証のためには批判的な観点が必要だからだ。
だが、だからといってこの小売店の店主にとって復興が成ったかと言えば、
それは否という他ないのではないか。

そもそも店舗の再生が成れば、この店主の家族を失った悲しみは癒えるのだろうか?
言い換えれば、行政の支援や寄付を受け取った人間は、
直ちに心の悲しみを勇気に変えて、新しい人生の意義に目覚め、暮らしを再開せねばならないのだろうか?
また、店舗の再建さえ果たせば、その後の暮らしぶりや商売の見通しが開けるのだろうか?
時代や地域社会の変化に応じて、暮らしぶりや生き方を変える必要があったのではないか?
そして、日本という社会の中で、生業や仕事を変えるということが如何に難しいか、多くの人は知っていたのではないのか?
であるならば、店舗の再開以外にも、様々な生活、教育、就職に向けた支援が必要だったはずではないか?

つまり、この店主は
「元の生活の復旧を図った」のであって、
「生活の復興を果たした」わけではなかったのだ。

復興とは、人間にとっても、街にとっても、
新しい歴史に向けた歩みを進めていくことに他ならない。
だから、復興には終わりがない。
ただ、被災前とは大きく違う、新しい歴史が続いていくだけである。

であるならば、
復興のためにどの程度の支援をすることがが必要であり、適切であったのか。
それは、支援を受けた人や社会が、その後も幸せな人生や歴史を歩んでいけるよう、
そのために必要な程度としか言いようがない。
復興政策を進める前に、その期間がいつまでになるとか、それに幾らかかるとか、
こういう問いかけには本質がない。
復興とはそういう概念ではないからだ。

復興期間の10年が経過した、投じた復興財源は38兆円であった、復興は完了した。
この文章の「復興」という箇所に、「復旧」という言葉を入れると、意味は良く通る。
復興と復旧は、全く異なる概念なのである。

3.神戸のいま

もう気づかれた読者もいるかもしれないが、
この店主は、実在の人物というよりも、神戸という街の比喩である。

地区によって復興の様子が異なるため、単純化は避けなければいけないが、
神戸の街について言えば、随分前から日常を取り戻していると言って良い。
暮らしぶりについては、未だ震災後の影響に苦しんでいる人たちもいる。
しかし、今や多くの人々が震災後に神戸に転居してきているし、
震災を知らない世代も年々増加している。
被災者が中心だった神戸という街は、今や過去のものと言って良い。
この意味で、人々の日常も平穏を取り戻している。

それでも、神戸が復興したかと言われれば、否と言わざるを得ない。

復興の歩みの中で、神戸は確かに日常を取り戻した。
だが、震災以前の活気、文化の輝き、経済都市としての地位や活力を失ってしまった。
政令指定都市の中にあって、人口の社会減に直面している数少ない例でもある。
神戸という街は「復旧を図った」のであって、「復興した」わけではない。
個人的には、そう考えている。

神戸の復興にも、相応の、そう手厚いと言っても良いくらいの財政が投じられた。
復興の原資を測る尺度となる直接経済被害額が約9.9兆円であったところ、
約16.3兆円規模の復興計画が行政によって実施されたのだから。
相当な支援がなされたと言って良い。

それでも、神戸という街は復興のあゆみの中で、
今日の時代に適応することに苦しんでいる。
大規模な財政負担に今でも自治体は苦しんでいる。

果たして、
「創造的復興」と銘打って、野心的な理想の高い復興を目指す必要があったのだろうか?
こうした批判が出てくるのは、東北だけではない。

4.「なぜ」という問い

ここに、重要な記憶の「風化」を見ることができる。
それは、復興を目指した「理由」だ。
そもそも、なぜ当時の神戸とその街に住む人々は、そこまでして復興を目指したのか。
復興を目指した動機が見失われているのだ。

例えて言うならば、
「日本が戦後復興を目指したのはなぜか?」
という問いと、意味合いは同じである。
そして、この問いに対する答えも、やはり「風化」しているのではないか。

経済学や戦後史の分析を振り返れば、
「どのようにして日本が戦後復興したか」は知ることができる。
しかし、「なぜ、日本という国は戦後復興を目指したのか?」は、識者によって意見が分かれるところだろう。

何を言う。
戦争で世の中が滅茶苦茶になったのだ。
とにかく、生活の立て直しに向けて頑張るしかないではないか。

確かにそうかもしれない。
戦争を経験していない筆者は、その答えを体感的に知り得ない。
それでも、震災後の現実を知っている立場から言えば、
「街が壊れてしまったのであれば立て直せば良いではないか。」
という考えには素直に首肯できない。

絶望した人間は、顔を手で覆いながら俯く。

朧気な過去の記憶の中にも、
多くの大人が絶望の表情にとりつかれ、打ちひしがれていた時の様子は片隅に残っている。
人は、そう簡単に絶望から立ち直ることはできない。
「街が壊れたか。そうか、じゃあ復興だ。」
というような気持ちの切り替えなど、できる人のほうが少数だろう。

では、
多くの神戸の被災者達が、復興など思いも寄らないことだったかと言えば、これも否である。
上に書いた行政による復興計画は批判も大きかったことは事実である。(その理由も様々にある)
それでも、多くの人々にとっては「復興」という言葉は重かったし、それは目指さなくてはならないものだった。
絶対に成し遂げるのだ、という断固たる決意のような響きさえあった。

では、なぜそれほどに人々は復興を目指したのか?
どうして、そこまで「復興」という言葉に思いを託したのだろうか?

この問いに対する答えも、被災者一人ひとりで考えが違うことは確かだ。
それでも、その背景にある考えを掬い取ってやれば、それは、
「悲惨な現実を前にしてそれに果敢に立ち向かうには、自らが奮い立つような目的が必要だから」ではないだろうか。

頑張ろう、神戸。
これはスローガンではなく、
到底、手に負えない現実と格闘するために、
必死で絞り出した勇気を託せる言葉だったから、
多くの人々の共感を呼んだのではないか。
想像を超えた理不尽に抗して生きていく人々に向けた、連帯の言葉だったのではないだろうか。

5.「風化」したもの

東日本大震災の被災地にも、
同じような言葉はあったのではないか。
目指す復興の形は違っても、必死で未来を目指す動機と決意が確かにあったのではないか。
我々は、「なぜ東北の人々が復興を目指したのか」、覚えているだろうか、
いや、そもそも知っていたのだろうか?

「風化」したのは「震災の教訓」でも「復興のあゆみ」でもなく、
「被災者や被災地に対する周囲の関心」ではないのか。

こうした目線から先の「検証」という言葉を改めて眺めてみると、
また違った風景が見えてくる。

いつから災害復興は財政政策のための公共事業になったのだろうか。
財政支出の効率性を図る物差しで、その成否を判断することができるのだろうか。
10年が経っても被災地によっては前向きな変化が見られないことは、
「復興支援が過大であった」ことの証拠なのだろうか。

復興とは、
想像を絶する理不尽に直面した被災者が、
生きていこうと歩もうとすることに寄り添うための言葉ではなかったのか。
「ともに傷つき、ともに立ち上がり、これからもずっと歩んでいこう」という、
幸運にも被災を免れた「我々の」決意表明だったのではないのだろうか。

6.焼け太り、再び

荻上チキさんのラジオ番組であるSessionを聞いていた時、耳を疑う話が聞こえてきた。
議論の詳細は省くが、環境省と中間貯蔵施設の地権者との交渉のやり取りの中で、
憲法によれば、失われた財産上の価値を上回って補償することができないのだという。
曰く、憲法は補償の範囲の上限を決めているのだという立場を環境省の役人が説明していた。

同じ議論は、いわゆる「焼け太り批判」においても聞かれる。
損失補償は、失われた価値を上回って行うことではない。
失った価値の幾ばくかを回復させるに過ぎない。
過大な復興支援など、焼け太りというわけだ。

筆者もかつて、同様の議論を多くの研究者や行政職員から聞かされたことがある。
いわく、道すがら財布を盗られても、国が出てきて補償することもないし、
するにしても、失った財布の中に入っていた以上の金額は支払われないでしょう、というのだ。

いつから、震災復興に公的資金を投じることは、
平時における財産補償の問題と同義になったのだろうか。
大災害で想像を絶する理不尽に耐えている人々を前に、
「しかし、自動車事故の被害者にはそんなに手厚い支援はしない。」と反論することに、なんの意味があるのだろうか。
行政の言う公平性とは、そういうことだったのか。

神戸の震災の時には、
「個人の財産は基本的に自由かつ排他的に処分し得る」ということを理由に、
政府は公的資金を、直接、被災者に給付することは法律上あり得ない、という立場を崩さなかった。
表向きは「焼け太りはあり得ない」ということがその理由とされた。
だが、後に財政負担の拡大を懸念する官僚がそうした理屈を後で思いついたということを、当時のある大蔵官僚が新聞に告白している。

復興とは人や地域にとっての新しい歴史のスタートである。
そうである以上、復興への公的支出は、被災者や被災地の未来に対する投資に他ならない。

だとするならば、
復興に向けた公的支出の程度が、失われた財産価値を上回ることは本質的に問題はない。
復興を損失補償政策の一環であるかのように見るその視点が問題なのだ。

7.アメリカの矜持

林(2011)の中に、面白い例が出てくる。
それは、アメリカの9.11テロの後に成立したATS法についてのくだりである。
これは、テロ以降、アメリカの航空会社が運行停止を強いられたことで経済活動に二次被害が出ていることや、
テロの犠牲者の遺族達が航空会社に訴訟を起こすことに対応した法律である。

その内容は大まかに言えば、
アメリカ連邦政府は航空会社の支援に乗り出す。
それだけでなく、基金を設立し、テロの犠牲者の遺族に対して直接補償を行う。
遺族補償にあたっては、一人ひとりの事情を考慮するために、行政側から出向いて話を聞き、
被害者に寄り添った対応を行うとともに、可能な限り迅速に支援する、というものであった。

この法律が議会で議論された際に、
ジョン・マケイン議員はこう主張したと、同書には書いてある。

曰く、
「この基金の意図は、この未曾有の、予測不可能な、恐ろしい事件の犠牲者とその家族が、
これまで耐え忍ばざるを得なかった恐ろしい苦痛に加えて、
金銭的困難まで耐えなくても良いようにすることなのです。」(林(2011), p.131)

9.11のような、想像を超えた苦痛を味わった人々に生活苦まで負わせることは、
アメリカの価値と相容れない。アメリカはそういう国ではない。
公的資金で直接補償を行うことは法律違反であるとか、
他の事象に比して公平性を欠く等という議論は、この際、全く聞かれなかったという。

ただし、その後、ハリケーン・カトリーナが起きた際には、アメリカは同様の措置を取らなかった。
9.11についても、基金の解散後にこうした補償が適切だったかは将来世代が考える問題であるという留保が加えられた。
文字通り、9.11は特別な出来事だったのである。

それでも、
同じ主張を震災後に日本の行政職員や政治家から聞くことができれば、どんなに心強かったことだろうか。
一人の被災者として、想像してやまない。

8.風化させないために

なぜ人々の記憶や関心が「風化」するのか。
それは形として残すものがないからでもある。
復興のあゆみ、それに先立つ苦難。そして学んだ教訓。
形を伴った「装置」を作ることで、
こうした価値が表現することは、記憶を社会に留める知恵といえる。

では、
こうした価値が表現された姿を、我々は街に見出すことができるだろうか?
街の中心にある公園、博物館や美術館、祭、等々。
実は、様々な街の姿の中に、復興や教訓が刻み込まれた様子を見つけることは、そう難しいことではない。
実際に、神戸の街にも、人と防災未来センターやみなとのもり公園、ルミナリエ等、
震災をきっかけに作られた「形」は存在する。

ただ、こうしたハードの「形」は、被災地以外の場所では作りづらい。
これでは、被災地から遠い人々の記憶や関心の「風化」を防ぐのは難しい。

では、他に「形」はないのだろうか?

ある経済学者は、以下のように主張した。
「大災害であるかどうかを決める基準は、『その災害をきっかけに新しい制度が創設されたか』である。」

東日本大震災によって、復興基本法が成立したことは確かだ。
だが、このことが、例えば平和憲法の九条のような市民権を得ているだろうか?
今からでも、震災の教訓を「風化」させないために、
新しい制度の創設を検討してみても良いのではないだろうか。

一人の被災者としては、
願わくば震災を乗り越えて作られた制度が、
不幸にして絶望に打ちひしがれた人々に寄り添い、勇気を与えるような、
新しい人生や街の歴史を作り上げていくために、共に歩んでいくような内容であって欲しいと願っている。

1929年の大恐慌という未曾有の危機にに直面した、
当時のフランクリン・ルーズベルト大統領の言葉で本稿を締めくくりたい。

「政府は過ちを犯すことがあり、
大統領も間違うことがあります。
しかし、かの不滅のダンテによれば、
神の裁きにおいて、
冷血の罪と温かい心の罪は異なる天秤の秤にかけられるといいます。
無関心の氷に閉ざされた政府の絶えざる無視よりも、
慈善の精神に生きる政府が時折犯す過ちのほうがまだよいではありませんか。」(林(2011), p.282)

<参考文献>
林敏彦『大災害の経済学』PHP新書






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