『私たちの存在価値とは?』すごいスピーチを勝手に翻訳してみた。
こんにちは。写真家のMiNORU OBARAです(自己紹介はこちら)。記事をご覧いただきありがとうございます。本日はとんでもないスピーチを見つけたのでご紹介です。こちらのスピーチ日本語訳がついていなかったので、勝手に翻訳してみました。
それにしても15分に満たないスピーチですが、翻訳すると8000文字を超えました。それでも、前後編に分けることなく、一気にいきますね。お読みいただく際は、目次を活用して、ゆっくりとお読みくださいね。
本題の前に
僕は英語で会話をするとき、日本語には訳さず英語のまま理解をしているので、すべてを日本語に訳すと言う作業には骨が折れました。同時通訳家の方って本当に天才。改めて凄さが身に染みました。
さて取り上げるのは、インドの神学者であり作家でもあるDevadutt Pattanaik(デーヴァダッタ・パトナーヤク)さんのスピーチです。
デーヴァダッタさんといえば、僕のnoteでも何度か紹介している著書『インド神話物語 -マハーバーラタ- 』や『インド神話物語 -ラーマーヤナ- 』の著者でもあります。
デーヴァダッタさん、インドの神学に精通しているだけあって、このスピーチとても興味深いです。しかしながら、インド独特の価値観やヒンドゥーのバックグラウンドをもとに話されているので、少し難解な部分もあります。
いつもの『おすすめスピーチシリーズ』では、全訳はせず、要約して記事にしていますが、今回はあえて、全文の翻訳に挑戦します。文化的に難解なところは日本人に分かりやすい言葉に置き換えますが、それでもきっと難解な部分もあるはず。
でも、きっと読んで損はなしです。
テーマは『人間の存在意義』について。
まずはそのスピーチ映像を。コテコテのインド英語!笑
この映像の後に全訳に入りますね。
宮殿を建て続けるインドラの苦悩
『人間の存在意義』の検証は、ヒンドゥーの伝統の中に見つけることができます。それは、”ブルーシャールタ”と呼ばれています。”ブルーシュ”はヒンディー語での”人間”という意味ではなく、サンスクリット語での『意識的な存在(conscious being)』という意味を指します。
『意識的な存在』は、その人生をどのようにして意味のあるものにするのでしょうか。それは誰もが持ち続けている問いです。
それは、神々の王であるインドラにとっても同じことでした。世界中の素晴らしいもので満ち溢れたパラダイスと呼ばれる場所に住んでいたインドラでさえ、無価値感を感じていました。
そこで、インドラはヴィシュヴァカルマン(あらゆるものを建設できるインドの神)を呼び、自らの栄光に値する宮殿を建てるように命じました。
ヴィシュヴァカルマンは宮殿を建てました。出来上がった宮殿を見たインドラは言いました。
「とても素晴らしい。しかし、まだ十分ではない。もっと大きな宮殿を建ててくれ。」
ヴィシュヴァカルマンは、もっと大きな宮殿を建てました。さらに、それよりも大きな宮殿を建てました。そしてそして、さらに大きな宮殿を建て、そのあとでそれよりももっともっと大きな宮殿を建てました。
それでもインドラを満足させることはできませんでした。
新しい宮殿を建てるたびにインドラは言うのです。
「これは、私の素晴らしさに値しない。まだまだ十分ではない。」
途方に暮れたヴィシュヴァカルマンは、神々に祈りました。すると、ヴィシュヌ神(ヒンドゥー教の最高神)が少年の身を借りて現れて、インドラに言いました。
「あなたの宮殿は素晴らしい。確かにとても壮大です。しかし、あなたより以前にいたインドラの宮殿ほどは、壮大ではありません。」
インドラは尋ねました。
「 ” 私より以前にいたインドラ ” とはどう言う意味か?」
その少年(ヴィシュヌ)は笑って返しました。
「あなたはインドラがたった一人しか存在しないとお思いなのですか? この世界には、たくさんのインドラが存在するのです。あなたの前世にもインドラはいて、あなたの後世にもインドラはいるのです。今この瞬間にもインドラはいて、違う領域にもインドラはいます。緑や浜辺の砂粒と同じ数ほどのインドラが存在するのです。それだけの数のインドラがいるのです。」
インドラは、「無限の法則(Denominator of Infinity) 」にハッとしました。
「自分の存在は、唯一のものでも特別なものでもない。自分の存在は、無限に続く流れの中のほんの一部に過ぎない。」
とインドラは気づかされたのです。
私たちは永遠に続く「無限のキャンパス」のほんの一部分にすぎない
インドラは、自分の経験に空虚さを感じました。そこには何の意味もないのです。
どれだけ壮大な宮殿を建てようとも、インドラよりももっと素晴らしくてもっと大きな宮殿が、他の誰かによってすでに建てられているのです。そして、この先も他の誰かがもっと大きな宮殿を建てるのです。そしてきっと、インドラのことなど忘れ去られるでしょう。
これは、インドにおける典型的な考え方であり、仏教やジャイナ教、ヒンドゥーの教えに伝統的に見出すことができます。
その教えは常に私たちに言います。
「私たち人間はそれぞれが、”無限のキャンパス”のほんの一部に過ぎません。あなたの人生が無限に広がっている限り、あなたが何を成したとしても、その意味は無に帰します。とても無意味なことなのです。」
そこで、インドの聖人たちは考えました。
「どうすれば価値を生み出せるか。どうすれば人生を意味のあるものにできるのか。『人間の存在意義』とは一体何なのか。」
そして聖人たちは、その答えを ”自然” の中に見出したのです。すべての答えは ”自然” の中にあったのです。
インドでは、洞察を得るために「見つめる(サンスクリット語で"Darshan")」ことに重きが置かれています。なぜならすべての答えは ”自然” の中にあるからです。そして、私たちが自然を注意深く観察した時にのみ、自然は真実を明らかにしてくれるのです。
すべては自然の中にある
自然は「生きているもの」と「生きていないもの」で成り立っています。
「生きていないもの(アジーヴァ)」は命を持ちません。「生きているもの」は命を持っています。
では、誰が「生きているもの」と「生きていないもの」に意味を求めるのでしょうか。誰が価値を求め、誰があらゆる物事を求めるのでしょうか。「生きていないもの」に欲望はあるのでしょうか?
ここに大事な気づきがあります。「パンチャマハブータ」という概念です。
*パンチャマハブータ=自然のあらゆる物は、5大要素 - 空、風、火、水、地 - で構成され、私たちの体質や性質もこれらの要素で成り立っているという考え。
火や水は、何も求めていません。火が燃料として燃えている時も、火は「よい燃料になろう」と思っていないのです。雲は流れて行った先に何も求めません。空も何も求めてせんし、水も何も求めていません。ただ流れているだけです。ただ動いているだけです。
「生きていないもの」には一見存在価値がないようにも思えます。しかし、植物は太陽に存在価値を与えます。植物は太陽を求めます。植物は太陽を探します。植物は栄養を求めます。太陽は植物に降り注ぐことで、自身にその存在価値を与えられます。
そのように、地球に存在価値が与えられ、風に存在価値が与えられます。ここでいう「生きていないもの」の存在価値とは、植物が求めている栄養、つまり「植物への貢献」です。
もしも、植物が存在していなければ、「生きていないもの」に存在価値を見出すことはできません。植物と太陽、植物と水の組み合わせがあってこそ、太陽や水がとても尊いものになるのです。「生き物の欲望 -the hunger of the living organism- 」が他の何かに対しての存在価値を生み出すのです。それは、植物が太陽に存在価値を見出すように。
食物連鎖が生み出す価値
では、植物に存在価値を与えるものは何者でしょうか?
そう、草食動物です。草食動物のおかげで、葉や果物や花たち植物が存在価値を見出すことができます。
動物は植物を消費します。なぜなら植物が自分自身に栄養を与えてくれるからです。
動物は生き続けるために自分の代謝を気にかけます。食べなければ死んでしまうでしょう。生きているものは、死を恐れます。だから食べ物が必要なのです。
そのようにして、植物には価値が与えられます。生きているものたちは価値を探し求めるのです。
では、動物の存在価値はどこにあるのでしょうか?
動物たちは、他の動物たちに食べられる時に、その存在価値を与えられます。
そのようにして食物連鎖が作りあげられるのです。動物が小動物をたべ、小動物は植物を食べ、植物は太陽や水などから栄養を得るのです。
この消費はあらゆる場面で起こります。
消費することは生き物が生まれ持った意志です。彼らに飢えがある限り、彼らは消費を続けます。そして、消費が続く限り、何かに存在価値が与えられるのです。
そうして、消費は続くのです。それが、生き物の意志だからです。
人間はすべてのものを消費している
生きることについての全ては、自然の中に見つけることができます。自然を観察すれば、すべての生き物が消費されていることに、あなたも気づくでしょう。
一方で、生命体のいない惑星では、消費もなければ、飢えもありません。そこに価値を見出されることはなく、誰も価値を与えることはできません。
我々は、誰かに消費されるからこそ、自らに価値を見出すことができるはずなのです。
人間は、すべてを消費しています。太陽や水を消費し、植物を消費します。私たちは消費して消費して消費し続けています。
私たちは世界中のあらゆるものに価値を見出しています。植物は私たちにとって価値があります。動物は私たちにとって価値があります。太陽や水も私たちにとって価値があります。私たちはテクノロジーを使って自然のあらゆるものからエネルギーを生み出しているのです。
人間は誰によって食べられるのか
それでは、誰が人間を食べるのでしょうか?
誰があなたや私を食べるのでしょうか? 誰が私たちを消費するのでしょうか?
もしも誰も私たちを消費しないなら、私たちに価値はないのでしょうか?
でも私たちは誰かに消費されたくはありません。私たちは動物に消費されたくありません。私たちは動物に食べられたくありません。
私たちは生きながらにして、何かに価値を与えたい。
植物は葉っぱをもぎ取られることで価値を与えています。
でも私は、鹿が虎に消費されるようにして、死にたくありません。
それでは私たちはどうすれば良いのでしょうか。どのようにして価値を生み出せば良いのでしょうか。
ヒントは植物にありました。
人間は植物のように果物や花を生み出し、死ぬことなくして何かに価値を与えることができるのではないでしょうか。
そうです、私たちは、商品やサービスを生み出すことができます。
それこそ、人間が商品やサービスを生み出す理由です。
あなたは私を食べたくないですよね。それなら「私があなたに何か食べるものを作ってあげましょう。」「様々な商品を作りましょう。」「電話回線を構築しましょう」「製油所を建築しましょう。」「 物を販売しましょう。」「サービスやおもてなしを提供しましょう。」「あたなが望むすべてをあげましょう。」「私が提供できる商品やサービスをあげましょう。」
そうやって人間は価値を生み出すのです。
そうやって、私たちは自分自身に存在価値を見出すのです。
「社会の役に立っているからこそ、自分は社会にとって重要な存在だ。」「社会に何かを提供しているからこそ、自分は社会にとって重要な存在だ。」と信じているのです。
人間の社会で価値は交換されている
では、商品もサービスも提供してない人にとっての存在価値はどこにあるのでしょうか?
サービスや商品は市場で交換されます。
市場へ行けば分かります。そこには商品やサービスを求めた人々が集まります。価値を求めている人々が集まるのです。
自分が創り出した「もの」によって、人は自分に存在価値を見いだすことができます。
発明家は自分が発明したものによって自らの存在価値を見出します。詩は詩人に、音楽は音楽家に、存在価値を与えます。
私たちは自らが生み出した商品やサービスによって存在価値を与えられているのです。
私たちは価値を交換しているのです。
功績を欲しがり、欲望を貯め込む人間
そして、私たちは価値を集めることもします。自分の周りに価値を集めるのです。世界のあらゆるものを欲しがり、世界のあらゆるサービスを欲します。
私たちは功績を欲しがるのです。
さらに私たちは、それらを集めて集めて集め続けます。なぜなら私たちは、「自分は『自分が集めた功績』で出来上がっている」と感じているからです。
世界のすべてのものは、お金と交換されます。でもそれはただ形を変えただけで、商品やサービスそのものなのです。だって最終的に私たちは、お金で商品やサービスを手に入れたり、もっと大きな家を手に入れたり、もっと大きな宮殿を建てたり、もっと大きな車を買ったり、プライベートジェットを買ったりするのですから。
私たちはそれを貯め続けます。なぜなら私たちの欲望には終わりがないからです。それはまるでインドラの欲望と同じなのです。
私たちはより多くを欲しがります。
なぜなら世界が言うからです。「自分は『自分が集めたもの』で出来上がっている」と。
「人間の存在意義」を求める限り、その声は常に聞こえ続けるのです。
ブルーシャールタの4本柱:アルタとカーマ
インドの聖人はある考えに辿り着きました。
「人生とはすなわち"価値を生み出すこと"だ。」という考えです。
インドではこの考えを「アルティシャーストラ(略して「アルタ」)」と呼びます。
「アルタ -Artha- 」は人間の存在意義(ブルーシャールタ)の4本中1本目の柱で、価値を生み出すべき経済活動を指します。
2つ目の柱は「カーマ -Kama- 」です。「カーマ」は消費活動を指します。
「アルタ」はすなわち、価値を創造すること。
「カーマ」はすなわち、価値を消費することです。
一方で商品やサービスが作り出されると、もう一方でその商品やサービスは消費されます。
私たちは消費活動を享受します。それはとても楽しいことです。例えばパーティーもそうです。パーティーは商品やサービスを消費する行動です。
では、商品やサービスを生み出したときに、その生み出し手にはどのような責任が課せられるのでしょうか。
生み出し手は考えるでしょう。
「誰が抱える欲求に目を向けるべきなのか。」と。
ブルーシャールタの4本柱:ダルマ
そこでたどり着くのは、「ダルマ -Dharma-」という概念です(人間の存在意義の3本目の柱)。
あなたは、あなた以外の誰かが抱える欲求について考えたことはあるでしょうか?
あなた自身のことや、あなた自身の価値についての欲求、あなた自身が得る商品やサービスについては、よく考えるでしょう。
それでは、あなた以外の誰かを取り巻く事柄についてはどうですか? 全く考えないのではないでしょうか。
「ダルマ」とは、自分以外の誰かが求めている事柄を想像し、考えることです。
しかし、人は自分自身の欲求を満たしたときにのみしか他人に価値を与えることができません。
ブルーシャールタの4本柱:モークシャ
そこで考えるべきは、「モークシャ -Moksha- 」という概念です(人間の存在意義の最後の柱)。
「モークシャ」とは、自らの欲求を超越することです。
人は自分が何かを欲しがっている限り、価値を集め続けます。
しかし、もしも自らの欲求を超越することができればその瞬間に、人は、その価値が何であれ、それを手放すことができるのです。
欲求を超越しない限り、慈悲心も生まれなければ、寛大にもなれません。自らの欲求に執着している限り、社会的責任も決して上手く果たせません。なぜなら、自分だけが消費し、他人には与えようとしないからです。
『人間の存在意義』の検証 LEVEL 1
『人間の存在意義』の検証の第1段階は、「アルタ」と「カーマ」です。
すなわち、「価値を作り出すこと(生産)」と「価値を消費すること」です。これらはどこにでも見ることができます。すべての人間がこれを行い、すべての組織がこれを行っています。
私たちは価値を生産し、価値を消費しているのです。
『人間の存在意義』の検証 LEVEL 2
『人間の存在意義』の検証の第2段階は、「ダルマ」と「モークシャ」です。
価値を蓄えるのではなく、欲を手放して、分け与えるのです。
「アルタ」「ダルマ」「カーマ」「モークシャ」は、人が存在価値を得るために必要なのです。すなわちそれは、作り出し、消費し、分かち合い、手放すことです。
インドラが宮殿を建て続けた本当の理由
さて、私たちが求めている大切なこととは一体何でしょうか。
それは、生きた証です。
きっと、私達たちは確かめてほしいのです。誰かに私たちの人生の目撃者になって確かめてほしいのです。
「『アルタ』『ダルマ』『カーマ』『モークシャ』を行えば、私たちは本当に自分の人生に意味を見出すことができるのか。」
私たちは、それを見届けてくれる証人を必要としているのです。
「私の人生には意味があった」と、誰が私に教えてくれるのでしょうか。私自身でしょうか。いいえ、他の誰かに教えてほしいのです。
それこそが、私たちがお墓を建てる理由です。
それこそが、インドラが宮殿を建てた理由です。インドラがたくさんの宮殿を建てたのは、価値を作り出すためでもなく、消費するためでもなく、分かち合うためでもなく、手放すためでもありません。
インドラは、自分のことを忘れないでいてほしかったのです。
お墓は遺跡となります。私たちがそこに足を運べば、私たちは思い出すでしょう。そして、思うでしょう。「人生を終えるときですら、自分に価値を感じて死んでいこう」と。
だからインドラは、たくさんの宮殿を建てさせたのです。
私たちは『無限の法則』の中にいる
そして、ヴィシュヴァカルマン(あらゆるものを建設できるインドの神)は永遠に宮殿を建て続けるのです。
ヴィシュヌ(ヒンドゥー教の最高神)は言いました。
「あなた方は『無限の法則』の中にいる」と。
すべては訪れては過ぎ去ります。
それが生命の法則です。永遠に生き続けるものなど存在しないのです。
この世には何百万ものインドラたちがいるのです。
木は、生まれては、時とともに枯れ、葉を落とします。
私たちは、命を分かち合い、また別の形で生まれ変わることを自分自身に許さなければなりません。
私たちはみんなインドラです。私たちはみんな宮殿に住んでいます。
この世には無限の数のインドラがいるのです。
私たちの前世にもインドラがいて、後世にもまたインドラがいるのです。
そしてそのすべてが、価値を生み出し、価値を消費し、価値を分かち合うでしょう。
でも、一番大切なのは、欲望を手放して本当の価値を得ることです。
所詮、私たちは、ホコリから生まれて、最終的に、ホコリに帰すのです。
でも、もしも、あなたがそのことを思い出せなくても大丈夫。
あなたが食べているマンゴーの実が、元々どこの木に成っていたかなんて、思い出せないのですから。
結びに
こんなに長く難解な文章を文末までお読みいただきありがとうございます。
ヒンドゥーの世界観はとても興味深い。でも、ヒンドゥーは仏教と根が同じなので、もしかしたら私たちにも馴染みやすい考えかもしれませんよね。
とにかく、本日もありがとうございました。
それでは、また次回。
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