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贈与論から考える #4


▶︎ 前回


▶︎ 概要

贈与や交換は、社会の中でどのような意味を担っているのか? モース(1872-1950)は、ポリネシア、メラネシア、北米から古代ローマ、ヒンドゥー等の古今東西の贈与体系を比較し、すべてを贈与し蕩尽する「ポトラッチ」など、その全体的社会的性格に迫る。「トラキア人における古代的な契約形態」「ギフト、ギフト」の二篇と、詳しい注を付す。

*何言っているか理解しづらいけど、自分的には、
「昔の民族同士の贈与形態やその背景を追っている」と解釈しています。

*集団間での給付体系をここでは「ポトラッチ」と呼んでいる。

▶︎ ピックアップ&雑記

当事者が追い求めているのは、気前の良さを示す事であり、何からも束縛を受けずに自由である様を示す事であり、何にも影響されず自律しているのを示す事であり、そしてまた自らの偉大さを示す事である。(p,147)

これはクラという一種の大ポトラッチであり、自分はお祭り的な感じに解釈しているが、この引用はそこでの話であるが、この様な自由な振る舞いは、強制のメカニズムが作用しているからであり、主体はこのクラに参加している人ではなく物だと。

なのでいかに相手に所有権を渡せるか自慢大会になるのであろう。
またそこでその人が相手に与えられるのは返ってくるという虚構な確証があるからなのかなと。
多分、現代にも言えると思うが、規範によって人の良い振る舞いというのが決まってくるんだろうなと。
返ってくる事が確証できないのに、相手に何でも贈れるだろうか。

貨幣が存在する様になったのは、貴重な物品がそれ自体として凝縮した富になり、また富の象徴ともなって、実際に貨幣へと鋳造される様になってからのことである、と。(p,148)

現代の中身とは違う贈与体系らしいが、表面的に現れている事は何も変わらない。
この時代で違う物同士を交換する際は意外とスムーズだった事から、どうやら物の相場というのがあるっぽい。
またこの相場とかは、交換で使用されるごおtに、その価値が増えていくっぽい。
まさに貨幣のあり方と同じで、使う人が多いと、その貨幣の価値も増えていく。インターネット効果にも近い。

でも違いとしては、その価値は主観と人格に結びついているからこそ、市場の値段がある訳ではなさそう。
ランクがあるだけで、具体的な値段は、個人に委ねられるからこそ、アートに近い側面があるなと。

ヴァイグアを所有していれば、「所有しているというただそれだけで、人は陽気になり、力づけられ、心和む物なのである」。(p,157)
*ヴァイグア…一種の貨幣。腕輪、首飾り、貝など

贈与贈答をしていると、自然とこれが良いとか欲しいとか出てくるんだろう。
基本的には、生活必需品以外は相手にあげないといけない理念があるからこそ、所有できるのは一瞬だけだからこそ、心が弾むんだろう。

ではこの人を現代に連れてきて、同じ物がいくつも目の前に現れたらどう思うだろうか。
その人が自分が信じていた事が嘘でない、正しい事だと思うために、現代の物を見るだろう。
その時に、現代では賄えない物だと思えたら、その物の価値は下がらない。
でも大量に作れてしまうと思った時には、この幸福感の効用は一気に下がるだろう。

物の唯一性は、絶対的な評価によって行われるので、他の存在が現れて相対的になった瞬間に、効用が下がり、機能面や質で劣り始めたら、その物はガラクタになる。
価値は、人の信じる力によって成り立っている。

(お返しの贈り物は)最初に与えられてた贈り物と価値において等しくなくてはならない。場合によっては、それを力ずくで奪い取ったり、不意打ちをかけて取り上げたりしても良い。お返しのヨティレが贈り物として不適切であれば、呪術をかけて仕返しをしても良い、(中略)
お返しをする事が出来ない場合には、ともかくバシを贈っておく。これは(中略)一種のつなぎの贈り物である。
(p,167)

ここで思うのは、贈りあっているのは「物」ではなく、それを通した「気持ち」なんだと。
贈り合う風習の中で物の価値がだいたい決まってくるとあったが、あくまでも主観が中心なので、上回ったお返しだと思っても、相手にキレられる事もあるから、面倒だと思うが、意外とこのキレられる事を恐れていない様に思える。

呪術や罵りなどを相手にぶつけても良いって言っているという事は、普段からそういうのがあると発見されてたからだと。

一見、争いに発展しかねないと思うが、それでも良いという事は、怒られたりするのは普通なのかもしれない。
そう思うと、このクラ含めた贈与贈答は、ちゃんと気持ちが返ってくるのが大事だと。

むしろ返ってこない方が争いに発展しそう。
とりあえず気持ちを贈り合うのが大事だと。それを現代は求めているんだなと、クラファンなどによる今の贈与贈答ブームを見ても思う。

「購入と売却、貸与と借用を示すのにただ一つの単語しかない」。やりとりとしては「お互いに逆向きなのに、同一の単語で表現されている」。(p,194)

なんか上手く言葉にできないけど、これって凄いことなのかもしれないと思って引用した。
あちら側からすれば、「なぜ分けて考えるの?」という感じだろう。

現代の人から見れば、これを温かいと思うかもしれないけど、彼らは基本的には義務で行っていると思う。
義務ではなく、主体的な風習や文化によって行っていたら、これは今でもどこかであると思うが、どうやらこの文化はモース氏が本書を書いた当時には残っていなさそうだ。

これを温かいと見るのか、義務と見るのかは人それぞれだが、現代はこれを温かいと見て、どう資本主義に取り込むか、多分それは新しい商業として入って来るのかな。

現代に導入された温かい贈与贈答が、クラウドファンディングだけではないのを祈る。

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