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人間は生まれながらにして平等か、疑う姿勢について

「自由人と奴隷の間に生まれながらの違いはない。」
「つまり、奴隷は生まれながらに奴隷なのではない。だとしたら主人も同じなのである。」

「奴隷のしつけ方」という、
マルクス・シドニウス・ファルクスというローマ出身の先祖代々大勢の奴隷を使ってきた当主が、奴隷の扱い方について書いた本を読み、いくつか現代に共通して使える事や思う事があったので、それについて。

読み進めて最後に気付いたのですが、
このマルクス・シドニウス・ファルクスという男は、この本の解説部分で出てくるジェリー・トナー教授というチャーチル・カレッジで古代ローマの庶民や大衆を研究している教授が作り上げた人物です。。

なので完全な古代ローマ人が書いたものではないものの、古代の様子を理解した人が書いたという視点で見て行きます。


【奴隷を扱う主人のあり方】
まず本書において、ギリシャとローマで奴隷に対する考え方が違いがありました。
奴隷を扱う習慣があったギリシャでは、主人と奴隷には生まれながらの違いがある。例外もあるだろうが、全体的に見てみると、創造の女神は自由人と奴隷を区別していると考えていた。
生まれながらに自由人は優れているからこそ自由人であり、奴隷は劣った存在であるから奴隷であると。

ですがローマ人は自由人と奴隷に生まれながらの差はないと考えいた。
あくまでも社会的習慣であると。
というのも、当時のローマは色んな地域から奴隷を獲得しており、3,4人に1人は奴隷であり、あらゆる活動を担っている。その中には当たり前の様に優れた者もいる。
だからこそ、ローマ人は生まれながらの違いはないと考えていたそうです。
とは言いつつも、奴隷は社会の最下層にいるため、主人は彼らの扱い方を考えないといけないというので、本書があります。(という設定)

奴隷と主人の間に個体差はないとしつつも、奴隷は投資であり、資産価値を維持しないといけないとしつつも、主人によって扱い方は様々で資産をダメにしてしまう主人もいる。
そのためそんな主人に向けての指南書であったり、哲学書の様になっている。

主に奴隷の資産価値を維持するには、
・食事を与える
・長期的目標を持たせる
・苦情を言わせる
・配置を考慮する
という、なんとも現代の様に、会社の社員のパフォーマンスを高める様にも感じる。(まあ現代に書かれたので、そうなっているのかもしれないですが。)
一言で言えば、ストレスマネジメントとエンゲージメント向上なのかなと。

ちなみに主人にとって良い奴隷とは、大人しくて、気弱で、こまめに走り回るのがベストで、たまに良い奴隷風に装っている者もいるから見極めないといけない。
そして奴隷所有者は、社会に立つ者として、道義をわきまえ、公正でないといけない。奴隷はあくまでも身体のみ所有していて、精神は所有していない事を主人は理解してないといけない。
奴隷はあくまでも、振る舞いが奴隷なのであって、血筋ではないので、奴隷は悪ではない。
奴隷が悪だと思うなら、それは主人が悪いからである。


また主人はたまに奴隷を解放する事がある。
それは主に主人の自己満足で、奴隷から感謝される事を望んでいる。
でも奴隷に感謝されるとは限らない。また解放された奴隷が上手くいくのが気に食わない者もいる。

主人は言う、
「奴隷は自分が持っている”富”をひけらかし自慢する。本当の富とは控えめな態度と、地位によって養われる品性によって語られるべきである。」

では奴隷側の意見を聞いてみよう。
なぜ富をひけらかすのかというと、富をひけらかす事で自己顕示をしている。
「誰からも借金をせず、誰からも訴えられず、今では土地や少々の銀食器を持ち、さらには20人の奴隷を所有する様になった。」
それは自分が誰かに所有されて味わった不愉快な体験を2度と繰り返したくない思いから行っているのだろう。


ここから現代の差別とか誹謗中傷について思考します。

人間、自分が正しいと思いたいんだろうと。
というのも今の自分の振る舞いが間違っていると思ってしまうと、自分の存在を認められなくなったりと、不安に陥るからこそ、
「自分は正しいんだ」
と思わないといけない。

自分が正しいと思うための方法は2つ。
自分で自分が正しいと思い込む。そして他人と比較して優劣を探して、自分が正しい根拠を見つける。

後者の様に自分のあり方を外側に求めると、しかもそれが優位である根拠にした場合、そのポジションにしがみつかないといけないので、良くない結果に繋がると。
「富」の考え方について、主人は控えめな態度こそが本当の富だと説いていたが、凄くポジショントークだなと。
富がなかったら自分の身に危険がおよぶ経験をしていたら、控え目とか言ってられないだろう。

主人は元奴隷を否定する事で自分の立場を守ろうとしていたが、そういう方法で自分の地位を保つのが大事だったからこそ、そうしていたんだろうなと。

とはいいつつも、自分より下な者がいる事、自分より下にする事で快楽を得るエンタメ的なものがあるんだろう。
そういう誹謗中傷のタイプは意外と少ないと思う。
目立ちやすいが、している本人が悪い事だと思って行っている時は、罪悪感で長続きしない。
タチが悪いのは、自分が正しいと信じて疑わない時の意見は、罪悪感は一切なく正義感で行うので、その相手が折れるまでやり続くける。

話は逸れている気がするのですが、自分が言いたい事は、
「自分の考えを疑う」という姿勢を持たないといけないと。
自分の考えは、感情をベースにしているのか、事実をベースにしているのか。そして事実をベースにしているとしても、どんな視点で見ているのか。

コップに水が半分ある時、
自分は「半分も」と思うか、「半分しか」と見るかで意見や感情が変わってくる。
それを自分自身で気付く習慣を付けて、自分は今どんな視点から物を話しているのか認識していないと人を攻撃したり、「あちら側とこちら側」と差別や分断思考に繋がりかねない。
少なくとも思考が止まって、見えたはずの物が見えなくなってしまう。

それは未知を知りたいと思い続けている自分の思考の邪魔になるので、
自分の思考や感情や視点を認識する事を心がけている。
まだまだ非常に難しいですが、考え続け、考える事を止めない事が大事だと思いながら過ごす様にしてます、という感想に落ち着いた文章です。

タイトルの平等について思うのは、
存在としては平等なものの、その人の能力値であったり、生まれた環境とか所得によって平等と思えるかどうかは変わってくるので、
この世界は平等だけど平等ではない矛盾があるのに成り立っている世界だなと、なんとも言えない所感です。

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