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メーデイアの眠り (5)

 お父さんに、弟のクラスを先に参観するように言って、私は急いでクラスに戻った。参観日の授業は国語だった。お父さんの事について作文を書いて、みんなの前で発表するのだ。先生はお父さんのことでもお母さんのことでもいいですよ、と言ってくれた。私のクラスには、お父さんがいない子が二人と、お母さんがいない子が一人いた。だから、先生はそういう子達の為にどっちでもいいといったのだと思う。私には、おねえちゃんというお母さんがいるので、他の子たちに比べたらちょっと特別な気がしてうれしくなった。私にはお母さんが二人もいるんだよ、そしてお父さんは一人。今度の母親参観日の時は、おねえちゃんにも来てもらおうと思った。

 授業が始まって二十分程して、お父さんが後ろの扉から入ってきた。私はこっそりその姿を確認して嬉しくなった。お父さんは他のどのお父さんよりもかっこいいと思ったからだ。お父さんはすらりとして、背も高い。着ている洋服もおしゃれで、おねえちゃんはよく、洗練されている、といった。洗練されているお父さんは雑誌のモデルみたいで、私は嬉しかった。でも、作文にはあまりお父さんのことが書けなかったので、私はちょっと恥ずかしくてうつむいたまま、みんなが手を挙げてどんどんお父さんの事について、得意げにクラスの前で作文を読むのを聞いていた。私はだんだんと申し訳なくなってきて、冷たい汗が首筋を伝うのを感じた。

 授業が終わって、お父さんにトイレに行くからここで待っててといって、超特急で弟のクラスに走っていった。そしてちょっとかわいそうと思ったけれど、もうお父さんは帰ったから、自分で帰れるでしょう?私は友達の家に行くから、と噓をついた。自分でもいい嘘だと思った。そして、また超特急でお父さんの待つ、私のクラスに戻った。

「お父さん、ゆう君がさっきね、友達の家によって帰るから、先に帰ってて、だって」

「なんだって?これから食事にでも行こうと思っていたのに」

「お父さん、じゃあ、おねえちゃんの家に行こうよ」

「キリちゃんのところ?」

「うん。毎日の日課なの」

「そうだったのか。キリちゃんは、優しいか?」

「優しいよ」

 私はお父さんと二人で歩けるのがうれしくて、手をつないだ。お父さんの手は優しくて、大きくて、しっかりしていて、全てのことを守ってくれそうな手だと思った。この手をおねえちゃんと一緒に握れる日が、早く来ればいいと思った。コーポつばめ。おねえちゃんのお城。私の隠れ家。いつかそこで三人で暮らせればいいのに。

「お父さん、まずね、うがい手洗いなの」

「おい、おい、お邪魔しますだろ」

「ううん、おねえちゃんは体が弱いから、まずはじめにうがい手洗いなんだよ」

 私がそう言って玄関で靴を脱いでいると、奥からおねえちゃんが出てきた。少ししんみりとして、せつない目つきのおねえちゃんは、なんだかいつものおねえちゃんと違う種類の人間に見えて、一瞬時が止まった。お父さんの方を見ると、おねえちゃんを驚いだ類の表情で眺めていた。なぜかちょっと私がそこにいることが、場違いな気がして心がちくりと痛んだ。そして沈黙を破る、おねえちゃんの神経質な声。

「あら、明奈ちゃん、おにいさん、来ていたの?」

「ああ、キリちゃん、お久しぶり」

 そしておねえちゃんは私を冷たい感情の籠った瞳で見つめ、突き放すように言った。

「じゃあ、明奈ちゃん、ありがとう。あなたはもう、帰っていいわ」

 冷たい空気がそこに流れた感じがして、私は一瞬たじろいだ。悲しみ、怒り、絶望、やるせなさ、裏切られたという一瞬の出来事が、私を支配して、揺さぶられた。私は一目散でその場所から駆け出した。後ろからお父さんの声が、意味のないテレビの雑音のようにくぐもって聞こえた。もう、どうでもいいことだった。その声に注意を払わないように、私は涙をこぼしながら、コーポつばめの門を抜けた。

「あーちゃん!ひどいよ!」

 ぎょっとして顔をあげると、そこに弟がいた。慌てて涙を手でぬぐい取り、私は弟を見た。少し怒っているその弟は、私を見て持ち前の放漫さで意見を述べだした。

「お父さんは先に帰ってるって言ったくせに、あーちゃんと一緒に帰ってるのが見えたから、急いで走って追いかけたんだよ!そしたら、おばちゃんの所に行くんだもん、これは絶対お母さんに言ってやるんだから!」

 憎たらしい、意地悪な意見。そんなのはもうどうでもよかった。私はおねえちゃんの裏切りで頭がいっぱいになってしまっていて、冷たくあしらうことで、平常心を保とうと必死になった。

「言えばいいじゃない」

 私たちは二人並んで家路についた。沈黙が二人の間で意味もなく距離を保ち、弟の存在が本当にどうでもいいものになっていくのが分かった。足取りは重かった。三人の夢はいつしかおねえちゃんとお父さん二人だけの夢になり、一人取り残された私は泡のように消えてしまった。

 家に着くと弟は真っ先にお母さんを探した。私はうがい手洗いをしに洗面所へ駆け込んだ。耳を澄まして弟が何を言うのか確かめようとした。それは私のうがいの音にかき消され、水とともに排水溝に流されていく感じがした。ふと鏡を見ると、後ろに殺気立った表情のお母さんが立っていて、ぎょっとした。慌てて振り向くと、お母さんは一目散で私のほうに駆け寄ってきて、胸ぐらをつかんだ。意味のない、つんざくような罵り声に、私は体を硬直させた。あまりの衝撃に、何が起こっているのかよくわからなかった。落ち着いて呼吸を整えると、お母さんの叫び声に、意味が戻ってきた。

「霧子のところに、行ったの?え?お父さんを連れて行ったの?」

 私は、言葉を発せない人形のようになって、お母さんを見つめた。その沈黙がますますお母さんを怒り狂わせ、私の頬を鈍い痛みが走った。

「なんでよおおおおおお!何てことしてくれるのよ!霧子おばちゃんは、おかしいから、取り合うなって、言ったでしょ!」

 お母さんは床に倒れこんだ私を何度も何度も蹴り飛ばした。動けなくなった私は、廊下の向こうに立って、驚きと罪悪感の混ざった表情の弟を眺めた。いい気味でしょう?こんなになっている私を見て、いい気味だと思っているんでしょう。そういう表情で弟を見つめた。そして私の隣では、狂った獣のような叫び声をあげて、お母さんが泣き出した。よろよろと、私は起き上がり、お母さんの肩をそっと抱きしめた。小刻みに震える、頼りないお母さんの華奢な肩。私を捨てないで。お母さんだけは、私を裏切らないで。おねえちゃんみたいに無情に、私を裏切らないで。そう思いながら、抱きしめる一方で、私はすがり付いてもいた。

「行くわよ。霧子のところへ、行くわよ」

 沈黙と悲しみ、そして恐怖。

 お母さんは私たちが走らないとついて行けない程の早歩きで、どんどんと前に進んでいく。弟が少し泣き言をいう。私は弟の手を握り、必死にお母さんとの距離を保とうとした。

 私は、空の青さとか、風の温かさとか、空気の少し湿ったにおいとか、そんなすべての周りに存在している出来事や事実がすべて残酷に思えて、おねえちゃんのあの表情を思い出して、おねえちゃんを嫌ってしまおうと、必死だった。でも、できない、と思った。

 いま私を無情に殴りつけたお母さんを嫌ってしまうことは簡単だったけれど、おねえちゃんの愛情は別次元に存在して、それを簡単に見放すことは、自分を置き去りにしてしまうようで、できない、と思った。おねえちゃんとは、そんな感じで結びついていた。

 お母さんを止めなくちゃ。それが、今しなくてはいけないことだと思った。だけど、こんな時に限って私は何もできない。お父さんのことについて書いた作文は、三行で止まってしまったまま、私はそれをくしゃくしゃに丸めて、机の中に置き去りにした。それが、私の分身におもえて、悲しくなった。

 おねえちゃん、私を置いていかないで。

 コーポつばめ。こんなにどんよりしたコーポつばめを見るのは初めてだった。ここは魔法やときめきがあふれているはずの素敵な場所だったはずだ。お母さんはゆっくりと、おねえちゃんのドアを目指した。私の足はすくみ、動けなくなった。今度は、私が弟に手を引かれながら、重たい気持ちで母の後に続いた。

 いつも私の為に鍵を掛けられていないドアが、いつも通り簡単に開いた。お母さんは、静かにゆっくりと、泥棒みたいに集中して音を消していた。靴を脱ぎ、抜き足差し足で廊下を進んでいく。私は弟に耳打ちした。

「ゆう君は、ちょっとここで待ってて」

 弟は黙って頷いた。私はちょっと躊躇して、靴を脱ぎ、うがい手洗いのことが一瞬頭をよぎったけれど、お母さんの後に続いた。お母さんの背中は震えていた。小さく震えていた。お母さんの後姿は悲しみと怒りで震えながら、私の前に存在した。お母さんは居間に入ると、そこに立ちすくんだ。私は、お母さんの後ろから、毎日おねえちゃんとおやつを食べながらお話しするその、柔らかいオレンジ色のイメージの居間を覗き込んだ。

 そこは、カーテンが閉められてあり、薄暗闇で、お父さんが授業参観で着ていたかっこよかった服が、無造作に脱ぎ捨てられてあり、おねえちゃんのやわらかい、妖しげな素材の洋服も、いやらしくそれに重なっていた。

 肉体が消えてしまったのだろうか?幼い私にそんな考えが頭をよぎった。おねえちゃんの魔法が効いて、二人は消えてしまったのだろうか?と。

 けれどそんな心配をよそに、目の前で閉じられたふすまの奥から、何かの動く音と、ささやくような音が聞こえてきた。おねえちゃんとお父さんは、ムエルテ様にお祈りでも捧げているのだろうか?

 お母さんの緊張感が高まり、その手が震えているのが見えた。私は突っ立ってそれを眺めている事しか出来なかったけれど、変な安心感もあった。まだ、おねえちゃんとお父さんは消えていない。私を待ってくれているはずだ。お母さんの手がふすまに伸び、その手はゆっくりと音もたてずに一センチほどだけの空間を開いた。お母さんはそれをゆっくり覗き込むと、そこに静かに座り込んだ。あれは、嵐の前の静けさだった。

 座り込んだお母さんの後ろから、私は好奇心に負けてその空間を覗き込んだ。

 薄暗闇の中、二人の人間の息遣いが確かに存在しているのが聞こえて、それがあまりにも苦しそうで、私は怖くなった。暗闇に目が慣れてくると、二人の裸の人間が重なり合っているのが見えて、それは蛇のようにお互いを這いまわり、私は立ちすくんだ。それはお父さんがおねえちゃんを殺しているようにも見えたし、おねえちゃんがお父さんを殺そうとしているようにも見えた。そして、甘ったるい、汗と欲望の混ざった気怠いにおいが鼻をついた。

 私は後ずさりした。そして、お母さんがゆっくりと立ち上がり、こっちを振り向いた。その頬には、涙が静かに伝っていた。お母さんは、夢遊病者のようにふらふらと、台所のほうへ消えてしまった。私は心配になって後をつけた。

 お母さんは台所の流しの前に立ってまだ震えているようで、涙も流れ続けていた。何がそんなに悲しいの、と言いかけてやめた。そうだった、お父さんはおねえちゃんと殺し合いをしていたんだ、悲しいに決まっている。私はお母さんを抱きしめようと思って、一歩近付いたときに、お母さんの手元できらりと光るナイフが見えた。

「お母さん、殺すの?」

 そう言った後、一瞬のうちにそれは起きた。お母さんは自分の腕を三回、瞬時のうちに切りつけた。それは、あまりにもあっという間だったので、一瞬時が止まったのかと思ってしまったほどだ。あまりにも素早く、お母さんの腕に深い傷がつき、それは穴みたいになっていて、そこから、ありえないくらいの量の血が流れだした。私はパニックになって、叫びだした。

「お母さんが、死んじゃう」

 そんなことを叫んでいたら、奥の部屋からお父さんが飛んできた。シャツとパンツを慌てて着たみたいで、その姿は滑稽だった。そしてもっと滑稽だったのは、お母さんで、自分の血でできた血だまりの中に佇んで、どこか遠くを見つめていた。お父さんは、お母さんを抱きしめて、何かをつぶやきながら泣き始めた。お父さんはお母さんの傷口を見て、またつぶやいて、涙をぬぐった。お父さんは優しくお母さんの肩を抱き、流しの横にかけてあったタオルを取り、それでお母さんの腕の血を拭った。傷は深かった。遠くからでもぱっくりと開いた傷口が三つ見えた。その傷に吸い込まれそうで、気持ち悪かった。そして、お母さんは相変わらず、一言も言葉を発さず、上の空で、涙のあとも乾いていた。お母さんは、どこに行ってしまったのだろう、と不安になった。

「明奈、悠斗と一緒にここにいなさい。お父さんは救急車を呼ぶから、お父さんが戻ってくるまで、キリちゃんとここにいなさい」

 暫くたって、サイレンの音とともに救急車が到着した。お母さんは担架に乗せられ、お父さんが後に続いた。私は弟の手をしっかり握りお父さんの言いつけ通り、そこで待つことにした。おねえちゃんは寝室に閉じこもったきり出てこない。私は、暗くなったおねえちゃんの居間に電気をつけて、テレビの電源を入れた。弟が好きそうなチャンネルに合わせると、そっとおねえちゃんの様子を見に、寝室の前に立ってみた。障子に耳をそっと当て、何か聞こえないかと耳を澄ましてみたけれど、何も聞こえない。私は、おねえちゃんのことが心配になって、思わず声をかけた。

「おねえちゃん、起きてる?」

 沈黙。そして、かすかに何かの動く、確かな音。

「明奈ちゃん?」

「入っていい?」

「ちょっと、待って。服を着るから」

「うん」

 ゆっくりと障子が開き、暗闇の中におねえちゃんがけだるげな面持ちで立っていた。髪を下したおねえちゃんは妖しげで、知らないおねえちゃんだった。ちょっと躊躇して何も言えないでいると、おねえちゃんがしゃべり始めた。

「おにいさんは?」

「えっと、お母さんが怪我をしちゃって、救急車で運ばれて、それについて行って、ここで待ってなさいって」

「そう。ひどいわよね。私を置いて行っちゃうなんて、おにいさん」

「たぶん、すぐ戻ってくると思う」

「ふん、いいのよ、戻って来なくたって」

「おねえちゃん」

「なあに?」

「ムエルテ様に、祈ろう」

 おねえちゃんは、寝室に戻ると電気をつけた。そして祭壇の上から、ムエルテ様の像をぶっきらぼうに掴むと、怒った口調でしゃべりだした。

「もう、こんなの只の役立たずなのよ。こんなのに祈ったって、どうにもならないんだよ。明奈ちゃん、これは、只の裏切り者だよ!神様なんかじゃない!」

「おねえちゃん」

「海に行こう、裏切り者を海に葬るよ!」

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