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メーデイアの眠り (1)

 見たことのないくらい大きな月が緩やかな夜霧の衣を纏う空の下、寂しさと悲しみとやるせなさが共鳴したような不安を感じ、私は一人ベランダに立っていた。ここ最近、あの人の帰りがあてつけのように遅い。仕事が順調なのは良い事だと思うが、私だって出来る事は率先して協力しているし、クライアントとの飲み会なら、私も誘ってくれたっていいのにと思う。連れは、フリーのデザイナーで、主に一点物の洋服を細々と売りに出しているのだが、最近その奇妙な方法が雑誌に取り上げられて、おまけに有名芸能人がクライアントに付いた事もあって、忙しくなってきたところだ。私がほとんどの洋服のデザインを担当しているのに、名前さえ出してくれない。何をやっているんだろうなあと、虚しくなる。結婚という形で、ただ単に利用されたのかもしれないという気がしてきて、私は憤りと、悲しみに耐えられなくなった。いい人間のまま死にたかった。私は自分を押し殺して、あの人に尽くしてきたつもりだ。あの人が喜ぶのを見ると、純粋にうれしかったし、もっと喜ばせてあげたいと思った。でも、もう限界に達していた。

 ここは十二階建てのマンションの三階だ。飛び降りたところで死ねないと思った。十二階まで行ったら死ねるだろうか?幼いころから綺麗な死体になりたいと思っていた。飛び降りたら、醜い死体になるかもしれない。そう思って、私は部屋の中に戻った。部屋の中の心地よい暖かさが、私を安心させてくれた。このまま眠って、死ねたらいいのに。私は睡眠導入剤の錠剤を薬箱から取り出し、あるだけテーブルに並べた。青緑のジェルカプセルはおもちゃみたいで、どう考えてみても死とは結び付かなかった。全部で二十六粒あった。これを全部飲めば、死ねるだろうか?死んだ私を発見して、あの人は取り乱すだろうか?私は、一体どうしたいのだろうか?あの人を困らせてあげたいの?それとも、私という人間を理解してほしいだけなの?もうどうでもいいと思った。日陰に咲く花は、太陽を見ることなんて、一生ないのだから。

 キッチンに行って、グラスに水を注いだ。水の透明さを見ていたら、早く死んでしまいたくなった。テーブルの上にきちんと整列させられた、魔法の薬。さあ、あなたたち、早く私を殺してちょうだい。そう呟いて、私は一粒一粒口に放り込み、透明の水で胃袋に流し込んだ。二十六粒なんてあっという間だった。私の体に急激な変化は起きず、ただソファーに腰かけて、薬が効き始めるのをじっと待った。音がしないのは、怖かった。私一人だけしか存在していない空間は、音が響くはずなのに、なぜか、逆に音が吸収されているように無音だった。どのくらいの時間がたっただろうか、じわりじわりと、体の変化が感じられた。頭がぼんやりとして、少し息苦しくなってきた。そうか、二十六粒も飲んだんだもの、こうなる事はわかっていたはずだ。怖くなって、ふらふらの足で、バスルームに駆け込んだ。蛇口をひねり、コップに水を注ぎ、無我夢中で飲めるだけ飲み喉の奥に指を突っ込んで、胃の中に入り込んだ異物を出来るだけ多く吐き出そうとした。そうしている間も、じわじわと薬物の血中濃度は上がっているようで、呼吸できない恐怖に襲われて、パニックになった。苦しくて、酸素を吸いこもうとすればするほど、水の中でもがいているように、息ができなくなった。ああ、私死んでしまうのか、なんて馬鹿な事をしてしまったんだろう。床を這って、安心できる寝室にかろうじてたどり着いた。ひんやりとした床に横たわり、暗闇の中私は呼吸を整えることに集中して、膝を抱いて丸くなった。そうしないと、私の中身がこぼれ落ちてしまいそうで、とても怖かった。目を閉じると、暗闇の中にぱちぱちと光がはじけた。ああ、自殺した人間は天国に行けないって本当だったんだな、そう思った。暗闇の中を永遠に彷徨い続けるんだ。母と父の顔が浮かんで消えた。ああ、あの人たちに何も言わないまま、私は死んでしまうんだ、そう思うと後悔が押し寄せてきた。遺書なんて書かなかったし、死ぬ理由も、誰にもわからないだろう。私は、いつでもいい人間だったから。苦しいのと、悔しいのと、呼吸できない恐怖と、そんな意識ばかりはっきりしていて、なかなか死というものに近付けず暗闇だけが私を包み込んだ。

 どのくらいそういう恐怖と向き合っていたのだろうか?ガチャガチャと玄関の鍵の開く音がした。あの人は何というのだろうか?びっくりするのかな?泣いてしまうかな?馬鹿な事をしてって、叱ってくれるかしら。少しだけ、呼吸が楽になった気がした。でも私は微動だにせず、床に丸まっていた。少しでも動くと、呼吸が乱れた。パニックになるのは嫌だった。

 キッチンのほうで、生活の音が聞こえてきた。それが私の中で少しの安心感となり、気分が落ち着いた。戸棚を開ける音。食器のぶつかり合うかすかな音。コップに飲み物を注ぐ音。ため息。無神経な類の足音が、寝室を通り越して、バスルームに消えた。排泄の音。生々しい、聞きたくない音。咳払い。水の流れる音、蛇口をひねる音、タオル掛けの軋む音。咳払い。ドアのゆっくり閉まる音。私は聞こえる音すべてに集中した。そうすれば、呼吸や酸素のことを考えずに済むので、いくらか気分が楽になった。

 寝室の扉をあの人は何の躊躇もなく開けた。ふらふらの足取りに、鼻を突くアルコールの匂い。あの人は思ったよりも出来上がっていた。床に丸まっている私につまずくと、ベッドの上に着地した。そして、あろう事か、そのままいびきをかいて眠ってしまった。私はその時、何かがぷちんと音を立てて弾けるのを感じた。

 その日、確かに私の中で何かが死んだ。

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