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セクシャリティの根本的問題

 鎌谷悠希さんの隠の王は、私のお気に入りの作品の一つだ。終わり方は哀しいが、すっきりとしているし、全てのキャラクターが憎めない。これは、私がレ・ミゼラブルのキャラクター全部憎めないのと同じ感覚で、こういう作品に出合うとうれしくなるのだ。私は総じて人間が好きだ。どんな悪い人間でも、いいところはあると思うし、私を虐げて、めんどくさい事をした人間でさえ、心からは憎めない。何でそういう風に考えられるのか、自分にもよくわからない。自分が嫌いだった時期があった。そういう時は、大抵、どんな人間も憎ったらしいのだ。なんで?が先回りして、全ての物事を世界のせいにしようとしていた。でも、いくら可哀そうな人を演じてみても、心の中は変わらないのだ。本当の自分を受け入れた時、他人も受け入れれるようになるのだから。

 鎌谷悠希さんの、只今連載中のしまなみ誰そ彼は、セクシャリティの問題を私たちに痛いほどぶつけてくる作品だ。でも、根本的な事はセクシャリティに関係なく、人は誰でも悩んでいるという事だ。私たちの抱えている、この歪な問題の根源は、セクシャリティによって、人権さえも認められない人間がいまだに存在しているということにある。同性婚が認められていないということは、同性愛者が人間以下という見解になる。この時代に、それは可笑しい事ではないだろうか?

 カミングアウト、ということもおかしい感じがするし、そういうことをしなくてもいいような、そんな時代はいつ来るのだろうか?そういうのを抜きにして、セクシャリティの事が空気のような存在になるのは、一体いつなのだろうか?一体、世の中の人間が総じて己を認め、他人を認められる日が来るのはいつなのだ?途方もない時間がかかると思う。自分を認めるのは、結構厄介な行為だし、自分が嫌いな人間は沢山いる。自己嫌悪に陥り、人間不信になる。人間は、心変わりもする。

 私は、自分に向き合ったとき、怖くなった事があった。自分がセクシャルマイノリティだ、という事を考えていなかった。好きになる人は、実に様々で、男性にも女性にも、ゲイの人やバイセクシャルの人、トランスジェンダーの人にも惹かれた事がある。それは、私がその人の性別を見ずに、その人の人間性や、見た目の美しさに引かれるためだった。そういう中、一人の女性にすごく惹かれた時期があった。彼女とはインターネット上のブログサイトで知り合い、何度かメールやメッセージをやり取りするうちに、好きになってしまっていた。その時期、私は今の連れと付き合い始めた頃で、彼女も連れと同じ国に住んでいたという事もあり、私は、半ば連れを利用するような形で、この国にやってきたのだった。合法的に滞在するには、結婚をしなくてはいけない。もちろん連れの事は大切だったし、出来る事なら、彼女とも仲良くしたかった。欲張りなのだ、私は。でも、彼女は、結婚した私から去って、当てつけのように男性と結婚した。すぐ離婚して、外国に行ってしまった。今でも、少しだけ話す事はあるが、彼女が私を理解するのは無理なのかもしれない。私も彼女に私の価値観を押し付けるのは気が引ける。同じセクシャルマイノリティでも、嗜好は十人十色だ。私はパンセクシャルで、ポリアモリー。彼女は多分バイセクシャルで、モノアモリー。行違えるのは無理もない。

 自分は、普通ではない性的嗜好の人間なんだ、と改めて考えだしたとき、世界がとても重く感じられた。この事を連れに言えるだろうか?母親や妹に言えるだろうか?友達には?知り合い程度の人には?何でわざわざ公表しなければいけないのか?私という人間は認められていないのか?怖くて泣いた。ちょっと冗談めいた感じで、連れに伝えたことがあった。でも、理解しているのか、していないのか、よくわからない返事だった。ああ、これって、私という人間性がまだ認められていないんだなと、連れにはじめて疎外感というものを感じた。一番近くにいる人間に認められていない、というのは、結構堪える。

 知ってもらえたら、楽になるんだと思っていた。でも違った。相手が本当に向き合ってくれなければ、問題は何も解決していないことになる。それを理解してくれた上で、私のことをまだ好きだ、というのならうれしい。しかし、なにも理解してくれていないのに、私のことを好きだというのは、それは本来の私ではないので、苦しい。理解して、それは無理!というのなら解る。でも、もし私が他の誰かの事も好きになって、お付き合いしたい、とかになった時、そんなの嫌だ!と言って突っかかって来られるのは困る。

 なかなか自分と同じ性的嗜好かつお互いに惹かれる、という人間に巡り合うのは難しいのだ。だから私はすぐ人間を好きになったりするんだと思う。好きになれば、毎日楽しいし、うれしいし、わくわくする。でも今一歩踏み込めない。もう、若くないし、色々しなくてはいけない事が沢山で、恋愛に一種のめんどくささを感じているのかもしれない。だから、脳内妄想だけで終わらせているのだ。そうすれば、だれも傷つかない。空しいなあ。

 こんなに沢山の人間が存在しているのに、合法的に一緒になれるのは一人だけ。まだ見ぬ出会った事もない人間の事を愛しく思い、その存在を肌で感じたいと思うことは、馬鹿げてるのだろうか?全ての人間に脳みそとか心があって、毎日生きている。生きていく中で考え、悩み、喜び、笑う。そんな人間をどうして拒否出来ようか?もっと一人ひとりの心の中を覗いてみたいと思ってしまう。本当に、欲張りだなあ、私。器用な人間になりたかった。欲張りな癖に、めんどくさがり屋。

 全ての人が、人間でいられるような地球になればいいのに。

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