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もっと味わってよかったんだ

コンプレックスだった。
「だった」と書いたけれど、過去形ではない。今もそう思っている。

どうしてもいろんなことをスピーディにできない。

食べること、話すこと、理解すること、歩く速度、身支度、なにかの作業…。

以前、働いていた職場で、自分的にはものすごい必死の形相で、スピード重視でやった作業を、先輩から「あなたはどうしても早くできないね」と言われたことがあった。
わたしがどんなに頑張ったって、人並みのスピードで物事をやることはできないのだと、悲しく、でもすがすがしく諦めた瞬間だった。

3月に葦江祝里さんの「足で語り、手で歌う〜頭と身体をつなぐ体験ワークショップ」に参加した。
のりさんのWSは、こういうことやったんだよ、って一言で言えないもの。
一言で言えないどころか、うまく言語化さえできないから、なかなかこの体験を言葉にして書くことができなかった。
けれど、わからないまま、わたしの体験だけを書いちゃお!という気になった。

WSが終わって、帰宅するために電車に乗った。
わたしは座っていて、目の前にカップルが立っていたのだけれど、そのふたりが不思議なほど立体的でいきいきとして見えた。
なにがどうなってそうなったのかわさっぱりわからないけれど、とにかく今までより人が立体的に見えるなぁ、と感じた。

電車を降りて、家まで歩いている最中にも、目に映るいろいろなものが鮮やかに見えた。
木だったら、一枚一枚の葉っぱが立体的で、葉っぱの枚数を正確に数えられそうだな、と思ったほどだった。
道端の石ころがキラキラ輝いて見えた。

不思議だった。
きっと、幼い子どもの散歩中に見える景色ってこんな感じなのかもしれないと思った。
すべてが生き生きとしていて、なおかつ初めて出会うものだから、感動が大きすぎる。立ち止まって、ひとつひとつを手に取って、観察して、さわってみたい。しゃがみこんで、飽きるまでずっと見ていたい。

突然、涙が出てきた。
泣けて泣けてしかたなかった。

わたしはずっと、お母さんが求めるスピードで、先生が求めるスピードで、上司が求めるスピードで、世間が求めるスピードで、社会が求めるスピードで、できるようにならなくちゃって、もっと早くできるようにならなくちゃって、わたしはわたしのお尻を叩き続けてきた。

早くできないとお母さんにがっかりされちゃう、先生に怒られちゃう、みんなに置いていかれちゃう、みんなに迷惑かけちゃう。
早くしなくちゃ、早くしなくちゃ。
遅いよって、相手をイライラさせたり、不愉快な気持ちにさせないようにしなくちゃ。
わたしがトロいポンコツ野郎だってバレないように、頑張らなくっちゃ。

でも、ほんとうはもっと味わってよかったんだ。
わたしの気の済むまで、飽きるまで、観察して、さわっていればよかったんだ。
わたしの速度で、もっと味わっていればよかったんだ。
そう気づいたら、泣けて泣けてしかたなくて、家までの帰り道を泣きながら歩いた。

あれから数ヶ月経った。
残念ながら、WSの直後に感じた鮮やかな世界観は、ちょっと色褪せてしまった。
大人のわたしが見ているいつもの風景に徐々に戻ってきてしまった。

でも、あの日のことを思い返すとうれしくなる。

目をくりくりと輝かせながら世界を見つめている子どものわたしが、大人になったわたしの中に、まだちゃんといるんだってわかったから。

その存在をはっきりと知ることができたから。

「ねぇねぇ、今度はなにして遊ぶ?」って、まっすぐなきれいな瞳で、大人のわたしをいつも見つめていることに気がついたから。


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