2022年4月に出版した対話の本「ことばの焚き火」と、何か感覚が重なる本に出会うことがある。精神科医でオープンダイアローグを実践している精神科医森川すいめいさんの著書もそんな本だ。
感覚的に捉えることができる実践するためのもの
すいめいさんは、前書きで、以下のようなことを言っている(一部要約)。
いやあ、これは「ことばの焚き火」の著者4人が書く上で大切にして来たことと、まさに重なる。
対話の本は、教育や医療、組織開発までたくさん出ているけれど、じゃあすぐに実践に移せるようなものというと意外に少ない。もちろん「やり方」を提示しているものはあるけれど、理論や方法が先に走ると頭が先に働いてしまう。私たちにとって、対話は身体感覚と関係の深いものだから、「感じる」より「考える」が先にくることは避けたかったし、生き物のように流れる対話をある種の「やり方」で固定化するのはかえって本質を損なうと感じていた。
本に正解が書かれているわけではない
「ことばの焚き火」を著者4人で書き、内容を分担するわけでもなく、それぞれが書きたいことを書いたのには理由がある。4人が4様で書くことで、「対話の形は1つじゃない、でも、共通点がある」ことを体感的に受け取ることで、「自分にとっての対話」「自分のやり方」を探求して欲しかったからだ。
すいめいさんも、本で正解を提示しているわけではないことを、随所に書いている。
ただ、対話をするだけ
対話のことを、Facebookやnoteで投稿するたびに、「私も対話したい」「会社でもできたらいいのにな」「家族に対話が足りてない」「でも、どうしたらいいか」そんな声をたくさん聞いた。だから、この「ことばの焚き火」をどうしても、書きたかった。難しく考える必要はない。要は「ただ、対話するだけ」なんだ。
すいめいさんも本の中で、繰り返しそんなことを書いている。
実際、ただ「実直に対話をする」以上は書けない。それは、それ以上に何もないからというより、それ以上が多すぎて書きようがないからなのだ。だから、逆に書こうと思えばいくらでも書くことができる。ただ、それで実践に役に立つだろうか?大切なのは対話の実践者が増えることであって、大著を書くことでも、感心されることでもない。だから、ただ対話するだけでいい。「これならできるかもしれない」「自分でもできそう」と一歩を踏み出す勇気が出ることが嬉しい。
対話的な人ではなく、対話をこころがけている人
「感じるオープンダイアローグ」の「おわりに」に、以下のような胸を打つシーンがある。オープンダイアローグを開発したヤーコ・セイックラ氏とすいめいさんの会話だ。
これと同じような問いを、「ことばの焚き火」を読んでくれた対話仲間に出されたことがある。
「著者4人は"対話ができる人"なの?それとも、"対話をしようとしている人"なの?」
そのとき、即座に私は答えた「そりゃあ、"対話をしようとしている人"だよ。"対話ができる人"とは一生かかっても言えないと思う。」と。
対話の専門家であったり、対話の大家であったりするから対話の本を書いたわけではない。やむにやまれず対話をしようとしている者であり、対話が必要で、対話をし続けたいと思い、たくさんの人と対話をしたいと思うからこの本を書いたのだ。対話的な人であるとか、対話ができる人とは言えない。でも、そうでありたいと、いつも思っている。
おわりに
今回取り上げた以外にも、本当に多くのことが、すいめいさんの本と「ことばの焚き火」では重なっていた。
それは、本を書く姿勢、読者に向かう姿勢に、共通点があるからではないかと勝手に思っている。