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なぜ”ただ「場がある」だけ”を開いたのか〜うっかりから、見たい世界を表現する〜

2022年9月23日(祝)秋分の日で大安かつ一粒万倍日だったというこの日、"ただ「場がある」だけ"というなんとも説明のしにくいイベントを開いた。場所代38,500円がかかりながら、参加費無料、誰が来て何をしてもいい、主催者からは何も提供しない、という”ただ「場がある」だけ”というもの。

アナウンスもFacebook上だけで、果たして人が来るのか、ドネーションで場所代がまかなえるのか?全く未知数な中、当日を迎え、結果的には、5歳〜80歳近い方も参加し、おおよそ50人で場を囲んだ。そして、収支は遠方からの寄付まで入って、15,883円のプラス(これが大澤真美基金設立のきっかけになる)。

この場をなぜ開いたのか、この場がなんだったのか、一度まとめてみる。

①うっかりは機会だ(なぜやるか?より、どうやるか)

そもそも、この日にシェアビレッジ葉山という会場を借りていたのは、全く別のイベントをする予定があったからだった。しかし、色んな事情でこれが頓挫。キャンセルするということもできたが、せっかく予約をしているなら、これをテコに使って何かやってみようという気持ちが沸き立つ。

私は「なぜやるか」には、さして注意が向かない。「なぜ、山に登るのか?」「そこに山があるから」レベルの話だ。というのも、人間の"思考"で叩き出せる理由など、大したことはなく、世間が了解可能な意味など、いくらでもそれらしく作り出すことはできると思っているからだ。それよりも大切なのは「どうやるか」だと思っている。1つの結果にたどりつく方法は、いくらでもある。

昨今「あり方」「being」が大切という言葉をよく聞くが、それは「どうやるか」というプロセスに出てくるものだと思うし、どう生きていくか、どう社会と関わって行くかという「表現」とも言える。だから、うっかり思いついたものも、それを実現させようとすれば、それは全て「表現」の「機会」になるのだ。

②9月23日を「ただ〇〇だけ元旦」にする

「あなたのままでいい」「そのままでいい」"言葉"では、そんなメッセージが巷に溢れているが、依然"体感的"には「価値を生み出す」「差別化する」「選ばれる」ことに意識が向いているような気がしていて。。。

価値を生み出そうとすると、必要性を超えて、過剰に何かが生産される。受ける方も、受け取る方も、その過剰さに圧迫れて、疲れている感じがするんだ。誰も望んでいなくても。だから、2022年9月23日この秋分という季節の変わり目を「ただ〇〇だけ元旦」として、「そのままでいい」を表現したいと思った。うっかりから、始まったこの機会を使って。

③主客を限りなくなくす(みんなが当事者になる)

自分が表現したい世界の1つに「1人1人がこの世界をつくる当事者になる」というのがある。だから、このイベントを企画し始めた時、「主客を限りなくなくしたい」という思いがあった。

世の中には様々なイベントがあり、音楽やダンスなどのアートや、素敵な手作り品の販売や、ワークショップ、美味しい食べ物など、探せば楽しいことで溢れているのだが、どうもそればかりだと、自分は疲れてしまう。「消費者」になっている感じ、「遊ばせてもらっている」感じがあって、参加している感覚が薄くなることが続くと、なんとはなしの空虚感、疲れを生み出すのだ。

一方、提供する側に回ればいいかというと、準備し、提供し、楽しんでもらった後に片付けをする中で、なんとはなしに、「消費されたような」徒労感が生まれることがある。

いずれの場合も、全く相互作用が生まれていないわけではないし、主客があることの素晴らしさもある。しかし、主客や提供/消費のベクトルに偏りがある気がするんだ。縁あって出会った人同士、人として自分の持っているものを差し出し合えたら、消費することも、されることもなく、みんなが当事者となって、共にもっと面白い世界が作れるのではないか。私はそこにワクワクする。

④偶発性を楽しむ(人生がライブであることを思い出す)

主客を無くすことにも通じるが、何かを「提供」しようとすると、そこに一種の計画性が生まれる。もちろん、それがあるから体験できることもあるから、否定するわけではないし、必要な局面もたくさんあるのだけれど、計画があることに慣れすぎると、偶発性を楽しむ余地がなくなる。

今回は、「わたしの、あなたの、わたしたちの自由を大切に」「シェアすること」を願いとしただけで、何も決まったことはなく、料理しても、ゲームしても、おしゃべりしても、寝ても、鬼ごっこしても、仕事しても、何をしてもいいということにした。こちらから提供するものも特にない。

コントロールを手放して、起こることを観ていると、10〜16時の経過の中で色んなことが起こって行く。いくつかの小グループに分かれておしゃべりが始まり、子どもが外でどんぐりコマ屋さんを開き、焚き火でコーヒーを沸かす人が出てきたり。ひとしきり人が交わったところで、「自己紹介タイムが欲しい」という声が参加者から上がって、大きな円になり、1人1人が声をだす時間が生まれた。そこからまた個別の対話、子どもは外で鬼ごっこ。通りすがりの人も何をやっているのか見学に入ってきたり、次に何が起こるのか、誰と交わるのか、予測ができない時間を共に作っている感覚があった。

⑤もう、あるもので十分だ

予定を決めない中で1つだけやったことがある。それは、みんなの家にある「カレーの材料になりそうなもの」を持ち寄ってもらって、「あるもんで」ランチをつくるという「あるもんで」食堂をするということ。

みんなでご飯は食べたいなあという思いはありつつ、材料を買うとなると、何人来るかとか何を用意するかとか考えなければならない負担があったので、それも手放してみよう、みんなの家にあるもんでやってみようと思い立った。

そこには、今回のイベントで大切にしたい思いも込められている。新たに用意しなくていい、過剰に価値を生み出そうとしなくていい、もう今あるもので十分豊かだ、ということ。

結果、参加者の中で、持って来られる人が家から持参したものだけで、全員が美味しくご飯を食べることができた。新たに買わずとも、食べ物は充分ある。

そして、何もコンテンツがなくても、この日、この時間、シェアビレッジ葉山という器に入った人から、豊かな時間が生み出された。集まった材料で、みんなに行き渡るカレーができたように。

表現としての無料&ドネーション

①うっかり巡ってきた機会を使い、②ただ〇〇だけを大切に、③主客を限りなくなくし、④偶発性を最大限に楽しんで、⑤あるもので満ち足りる。そんな場を表現したくて、"今回は"参加費を基本無料&ドネーションにしてみた。

参加費を取るとなると、価値を提供しよう、されようとする意識が発動しやすいし、通りすがりの人がふらりと立ち寄る偶発性も低下する。

ただ自分のやりたい表現で場をつくり、ただ出したいと思った人だけが出せる分・出したい分だけを自由意志で出す。そこには、損も得もない。それで小さくても世界が回るなら、こんなに肩の力が抜けることはないじゃないか。

もちろん、これだけがやり方でも、正解でもないし、同じことを繰り返すこともないかもしれないれど、これはこれで、1つの希望が見える。

見たい世界を自分から

「その人が足すことも、引くこともなく、そのままでいる」ことが、最も尊いし、最も世界に貢献できることだ、と思っている。そして、そういう世界であって欲しい。

であるならば、「自分が、自分のままでいる」ことを受け入れることが、まず第一だ。「あなたは、そのままで完璧だ」というなら、自分にも言ってやらなければ嘘になる。世界はフラクタルなんだから。

主催者だから価値を提供しなければならない、人に来てもらえなければ価値がない。ややもすると、そんな思考に巻き込まれてしまいがちだ。そこを、誰よりも自分に向けて「それでいい、小さくていい、そのままでいい」と言ってやる。

手放すことは、時に怖いし、放っておくとつい意識が引き戻されたりもするけれど、まずはそこから。見たい世界は自分から。

※今回のイベントの開催予告&報告の表現


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