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なぜ「半開きの家おおさわんち」をやっているのか?〜ちょっとコースを変えてみる〜

今から2年前くらいだろうか、仕事を辞めた頃、自分の住む葉山の家を「半開きの家」と呼ぶようになった。葉山町は避暑地ということもあって、以前から親戚や友人がよく遊びに来てはいたが、敢えてこう呼ぶようになったのには意味がある。

確か坂口恭平の独立国家のつくり方だったか(うろ覚えだけれど)、空き家や空き地が余っているのに、ホームレスがいるのは変な話だというようなことを何かの本で読んだ。いや本当に変な話だな。地球上には全員が生きていけるだけの食べのもの、住む土地もあるだろうに、一方ではだぶつき、一方では足りない。

なぜこんなことが起こるんだろう。空き家をたくさんもっていても、無料(ただ)で自分のものを使わせたくはないし、食べ物が家に余っていても「これは私のお金で買ったもの」だし、貯金があっても「自分で稼いだものだし、無くなると困る」から、今なくて困っている人がいても差し出すことができない。これってなんだろう。

人のことはさておき、自分の心のうちを掘り下げてみると、「これは私のもの」という私有の感覚が前提にあるから起こっていることなんだろうなというところに行き着いた。「いや、自分のものって当たり前でしょ?」本当に当たり前なんだろうか。

こんなことを言うと元も子もないように聞こえるかもしれないけれど、地球にとっては「どの土地が誰のもの」ってことでもないのにも関わらず、人間が勝手に線を引いて、「これは私のもの」「あれはあいつのもの」とやっている。そして、一旦「自分のもの」となったら、それを分かち合うことがなかなかできない。

「自分のもの」が潤沢にあるときはいいけれど、みんなが「自分のもの」と抱え込み始めると、経済的な不運や災害や時代の流れや、何かのタイミングで「自分のもの」がなくなって困ったとき、助けを求める先がない。そうなると、「自分で」ものやお金を貯めておく必要があって、ますますわかち合わずに貯め込むことに意識が向くし、「なくなる不安」から逃れることが難しい。

一方で、カリブ海のドミニカ共和国に住んでいたとき、道に鈴なりにマンゴーなどの果物があったということもあるけれど、お金がなくてお腹が空いたら、友達の家でご飯にありつけたし、ちょっとお昼の材料が足りなければ、隣んちから借りることができたから、「決定的に食べられなくなる」と言う不安は、特になかった気がする。そして、逆に友人たちも、いつの間にか我が家の夕飯に紛れ込んでいたり、冷蔵庫を勝手に開けていたり。

そんなことをつらつら考えていたとき、ふと「半開きの家」という言葉が頭に浮かんだ。私有の意識が強くなることから、分かち合いが減り、かえってお互いの「無くなる不安」が増強するスパイラルに入ってしまうなら、まずは自分の私有を少しでも開いて、そのコースを変える必要があるんじゃないか。誰かの何かを待っていても何も変わらないし、変だな、おかしいなと思う現実を作っているのは、そもそも自分なもんだから、自分の私有との関わり方が変わるしかない(だから、「共有地をつくる」大澤真美基金もやっている)

とはいえ「全開き」ではない。以前、細胞膜と選択透過性について書いたことがあったけれど、細胞が成立するためには形を維持する「膜」も必要だし、一方で生命が循環するためには一定の物質の行き来ができる「選択透過性」も必要だ。この「半開きの家」は、来た人が社会的な役割に捉われず、お互いに自分でいることを尊重し合えるアジールのような場所であって欲しいと思っている。だから、その形を守りつつ、いろんな人が行き来できる場所になったらいい。

「半開き」と言い始めて、前以上に人が遊びに来たり、泊まりに来たりしやすくなって、家族にも変化が現れた。結構な頻度で人が家にいるもんだから、人に気を使ってもいられなくなったし、家族ぐるみで自分のままでいていい仲間が増えたし、多様な価値観や背景の人に出会い「こんな生き方もあるんだ」という生き方サンプルがものの見方を広げてくれている。そして、自分の生活の中に「共有地」を増やすと、「自分のもの」と囲い込みすぎると不安になるのと反対に、総じて「安心感が増す」方にコースが変わる体感がある。

とは言え、実はこれはそんな大層な話ではなく、ちょっと昔の日本ではご近所さんが夕飯の食卓に上がっていたり、家族ではない人が家にいるなんてこともそんなに不思議ではなかったし、縁側という内と外の間(あわい)があって、日常的に人が行き来する余地があるのが普通だったはずだ。だから、まずはちょっとだけ意識してみるだけでいい。これまでと、少しコースを変えてみるだけでいいんだ。ちょっと小石をどかしてみるくらいの気軽な気持ち。それだけだって流れは変わり、そこから見えてくる景色は確実に変わってくると思っている。

(あとがき)2023年に入って、自分の家やスペースを分かち合ったり、ドネーションや物々交換でやりとりする人が増えている気がする。これまでの
コース、お金や私有との関わり方が見直されて、別のものに置き換わる部分が生まれて来ているように思う。


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