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「風をとおすレッスン」✖️「ことばの焚き火」

昨日、大手町で対話会を開催したとき、留学帰りの高校生が参加してくれた。そして、「帰って来て、日本の社会は息苦しいなと思う」と。なんとなく息が詰まる感じ、うまく吐くことも、吸うこともできない感覚。体が硬くなる感じ。それは、私が子どもの頃から変わってないような気もする。だから、「風をとおすレッスン」が必要なのかもしれない。

共通の知り合いのFacebookの投稿で、田中真知さんの「風をとおすレッスン」のことを知った。10代以上すべての人のための人文書シリーズ「あいだで考える」の1冊。

2021年に4月に仲間と出版した対話の本「ことばの焚き火」の共著者の中村一浩が、常々「自分は風を通すことをしている」というようなことを言っていたり、「風をとおすレッスン」の目次が「ことばの焚き火」のキーワードとすごく重なっていたりで気になって、田中さんと連絡をとらせてもらい、嬉しいことにお互いの本を献本し合いっこさせてもらうことになった。

「人・本・旅」で人生が豊かになる、を地で行く人

田中真知さんは、大学時代から旅好きで、新婚旅行で北アフリカを旅していたとき、中東で湾岸戦争が起きたため、アフリカ中南部に避難して、なんやかんやでそのまま8年滞在することになったそうな。私は、必要な体験が、その人に向かってやってくるものだと思っているが、それにしても「新婚旅行からって、そんなことあるんかい!」とツッコミを入れたくなるほど劇的なライフストーリー。

「風をとおすレッスン」は、中東やアフリカを旅する中で、コミュニケーションや対話について考えるようになったという真知さんが、「人と人とのあいだ」、コミュニケーションについて書いている。

10代の方にも理解しやすい、でも決して内容が手加減されているわけではない文章とnakabanさんのイラストに引き込まれて一気に読んでしまったが、それは、真知さん自身の体験に基づいた、根っこのあることばだからなんだろう。世界という広い対話の場における、真知さんの声と言っていいかもしれない。

立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明さんが、「たくさん人と会い、たくさん本を読み、たくさん旅をする(≒現場に行く)ことで人生が豊かになる。」と言っているが、「風をとおすレッスン」には、旅での体験、人との出会いだけでなく、たくさんの本のことが書かれていて、真知さんはまさに、この「人・本・旅」を地で行く人だ。私も本が好きで、これまでドミニカ共和国に住んだり、20カ国以上を旅したり、たくさんの人と出会って来たから、勝手に親近感が湧く。

期待しないコミュニケーション

「風をとおすレッスン」で惹かれたところ、自分が思う「ことばの焚き火」を書き出し始めるとキリが無くなりそうなので、1つだけご紹介する。

真知さんがもう20年以上も飼っているカメとの関わりを入り口に、コミュニケーションにおける「期待」のありようから、「期待しないコミュニケーション」について書いている部分。

期待しないコミュニケーションは、闇に向かって球を放りつづけるようなものなのかもしれない。その球をだれが、いつ受けとってくれるかはわからない。だれかが拾いあげたとしても、そこからこちらへ投げ返されることはないかもしれない。そのだれかもまた拾いあげた球を闇に向かって放り投げる。また、だれかが拾う。そういう営みが連綿とつづいていく中で、伝わっていくものがあるはずだという思いが「期待しないコミュニケーション」なのではないか。

p106「風をとおすレッスン」

おお、それ、それ!同じようなことを、私は「キャッチボールというより、場に出した波紋の広がり」というパートで書いている。

わたしの思う対話はそれ(キャッチボール)とはちょっと違う。キャッチボールというより、波紋の広がりというイメージが浮かぶ。
相手に投げるのではなく、静かな水面にことばの小石を投げると、そこには同心円状の波紋が広がる。その波を感じて、また他の人から別の波紋が投げかけられて、それが重なったり、打ち消し合ったり、強め合ったり。そうした自然の波紋が水面に広がっていく。

p49「ことばの焚き火」

キャッチボール的な会話のように、相手の行動(受け取ってくれる、投げ返してくれる)への期待が入ると、ことばが相手に向かって調整されて、「自分とつながったことば」でなくなる感覚がある。

バガ・ピグミー族がしているという2つの特徴的な会話・発話も期待しないコミュニケーションの一つだろう。ドミニク・チェンの「未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために」から引用する。

バガ・ピグミー族の人々は集会での会さを楽しむ時に、時として一斉に話しはじめて、互いの発話が重なり合う。長い沈黙の時間が継続するのだか、それを気まずいと感じていない様子らしい。

P186「未来をつくる言葉」

こうした重複も沈黙も社会的に問題ない会話があると思えば、バガ・ピグミー族には、「相手を特定しない、大声の発話」というのもあるそうだ。

それはボナンゴと呼ばれ、村の広場で誰かがいきなり独り言を大声で話し始めることを指す。内容は非常にプライベートなことから、集落全体に関する意見までを含むが、興味深いのは誰もそれを面と向かって受け止めない点だ。村人はボナンゴをしている人のことを無視するし、話す方も気にしないで話し続ける。

P186「未来をつくる言葉」

私は、対話会を始めるときに「対話は、他者と共に行う盛大な独り言のようなもの」と表現することがある。

横につながりすぎると、そのつながりにがんじがらめになって、出したい言葉も出しづらくなる。横にいる人とつながるというより、自分自身としっかり縦につながった言葉を出すと、逆にお互いの心に何かが触れることがあるように思う。バガ・ピグミー族に聞いてみないとわからないが、そんな言葉の出し方の知恵のように感じられてならない。

p.55「ことばの焚き火」

風をとおすレッスン

過剰なつながりが、自分をあやつり人形のようにコントロールしている。そのつながりの糸をゆるめてみる。すると、「自分はこうしたい」と思っていたことが、じつは自分と一体化していた他者が望んでいたことだったと気づくことがある。そして、あらためて、その他者の声に耳をかたむけるゆとりが生まれる。風がとおるのは、そんなときだ。

p5「風をとおすレッスン」

私たちは、知らず知らずのうちに、人と人とがつながって生きる社会のルールを内在化させて、自分で自分をしばっていることがある。息苦しさは、そんなところから来るんだろう。自分と他者、そして、他者を内在させた自分と自分の間に、風をとおすことで、もっと息がしやすくなるかもしれない。

真知さんの本に、具体的な風のとおし方は書いてない。「ことばの焚き火」がハウツーでないのと同じだ。風のとおし方は人それぞれ違う。でも、真知さんが闇に向かって投げた球が、あなたの中の何かに触れ、つながりの糸がゆるんだら、きっとそこに風はとおる。そして、あなたが闇で拾った球が、誰かの中に風をとおすんだ。





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