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対話における相互理解と共通基盤について

何度か書いているように、会話は関係性の構築を、対話は相互理解を目的とすると言われる。しかし、この「相互理解」というのは、相手の考えていることが理解できるというより、何か共通基盤を持っていることが体感的にわかるという感じに近いように思う。

対話では社会的な言葉ではなく、自分の言葉を場に出す

日常生活の中で、私たちは自分の立場や役割から言葉を発することが多い。先生に向かい合う時の生徒の言葉、子供に対する母親の言葉、上司から部下への言葉、医師が患者に発する言葉。一個の個人としてどうかというより、「役割として求められている」とそれぞれが「想定している」言葉で語りかけている。その想定の範囲は実は人によって違うが、関係性に紐づけられた評価判断のある社会的な言葉と言えよう。

しかし、対話では、役割や立場を一旦脇に置いて、自分の内側から湧き上がる言葉を場に出して行く。母親から「子供は大事だけれど、同時に旅に出たい衝動がある」ことが出されたり、「校則を守らせることに痛みがある」教師の言葉が出てきたり。普段は見えないことにしていた心の内が共有される。

違いと大切にしているものが見えてくる

社会的な言葉というのは、それぞれ想定の範囲は違うものの、どこか似たりよったりの部分が多いから、違いが見出されることが少ない。例えば、看護師同士が、看護師とは「患者に寄り添い、その自然治癒力を引き出す存在である」という前提の元に言葉を出し始めれば、寄り添うことに苦しさを覚える自分は見えなくなるし、前提に話が集約されて行くから、個々人の中で起こっている多様なものの見方は出てこない。

しかし、対話の場で、自分の言葉が出てくると、その人の内側で体験されていることの多様性に驚く。それは、そうだ。生きていた過程・経験して来たことが違うのだから。自分と全く違う見方の存在に気づき、反応する瞬間もあるけれども、それによって自分が大切にしているものがわかったり、相手の大切にしているものがわかったり。

大切にしているものは違えど根っこはつながっている

お互い自分の内側から出てくる言葉を場に出し合い、それぞれが大切にしているものを評価判断なくそのまま手に取ることができるようになると、理解はできなくても、その人を体感的に「知っている」感じが生まれてくる。大切にしているものはそれぞれ違っても、その奥にあるものに触れている感覚があって、そこに対する安心感が生まれてくるように思う。

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私は、この図のように世界が1つにつながっているように思っていて、それぞれが内側とつながった言葉を発すると、出てくるものは固有のものであっても、根っこは共有されているように感じている。だから、つながっている感覚、共通基盤を持っているような感覚になるのではないかと思う。

思考によって作るのではなく、対話によって共通基盤を思い出す

J・クリシュナムルティとデヴィッド・ボームの対話集「時間の終焉」では、世界には何らかの「基底(ground)」があるが、思考や知識では、それを作りあげることはできないと言っている。また、こんな一節もある。

基底は私に向かって、私が行って来たすべての活動だけでなく、その他あらゆることには何の価値もないと言います。だから、もし私がそれらすべてを脇にどけることができれば、精神はそのまま基底になるのだと。そこで、そこから私は動き、そこから社会を作り上げていけばいいのです。 P172-173

あくまで自分の体感覚だけれど、色々な評価判断を脇に置いて対話をすることによって、この基底に触れることができるのではないか、これが対話の場で感じられる共通基盤なのではないか。だから、これは創り上げるものではなく、思い出すもの。条件づけのない「安心感」「知っている感」「つながっている感」。そこから社会を創り出したら、きっと出たがっている社会が出現するだろう。何だかわからないけれど、それを信じられる。思考レベルではない何かを体が知っている気がする。

<参考記事>


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