「学力の経済学」を読んでつらつら考えてみた教育議論の迷走の道筋

先だって、「「学力」の経済学 2015/6/18 中室 牧子著」という本を読んでみた。

なかなか興味深い。エビデンスベースの教育研究のお話しである。

実のところ突っ込みどころも満載で「それ、ネタ(研究における問い)としてどうよ?」っての取り上げられてたりとか、「ちと結果の解釈短絡してね?」って部分はあるように思うが、反論本もいくつか出ているみたいなので、そちらに任せておこう。



日本の教育どこむいてきた?問題

後半の「日本の教育どこむいてきた?」ってなとかいう問いかけはわりと的を得ている部分は大きいと思う

明治以降の日本の教育って「中央集権化と富国強兵からの必要性」からスタートした部分は大きい。

江戸時代の寺子屋がスタートの学校というのはそう多くはないし、あったとしても明治以降には寺子屋スタイルとの断絶がみられる。

その後大正期に、明治時代に形作られた教育スタイルへの反発や、自由民権運動などの影響か「子ども自身のための教育」といった観点がでてきたようである。

文学方面から発生したとされる生活綴方運動という教育運動は「児童の開放」やら「農村の開放」といった意味合いもあったようである。

その後、第二次世界大戦を経て、日本の無条件降伏以降は「民主化」という観点が教育において重要視されるに至る。

ややこしいことにその「民主化」というのも複数の考え方があり、それによって「人格」という概念すら違ってくる。

アメリカ型の民主主義、イギリス型の民主主義、ソビエト型の民主主義等々、百花繚乱の民主主義の時代である。

占領軍が米軍中心によって構成されていたため、アメリカ型の民主主義といったものが教育現場にも導入されたわけだが、まだまだソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)の勢いも非常に強かった時代である。そう一筋縄ではいかない。

日本の教育ではその後「米英式民主主義」vs「ソ連式民主主義」の対立がしばしば起こっている。

その結果「教育をうける子どもという存在」への「指導がどうあるべきか?」といったところが、ながいこと政治思想的な話を伴った形で語られてきた。

現実の「子どもたち」というのが、ほぼ置き去りされた状態で、学校教育というのが議論されてきた部分が少なくない。

 

1960年以降、いまなら、こんなもん表面化したら威勢よく非難が巻き起こりそうな指導法?というのがたくさんでてきた。

どんな指導法でも、小学生対象ならば、ある教師の話術が上手けりゃ、それで表面づらはうまくいく。

そういった表面だけうまくいった例「実践報告」がお手本のほうに語られ、指導法として多数書籍化されてきた。

特に集大成ともいえるのが下記の「学級集団づくり入門第二版」であろうかと思われる。

マカレンコ式集団主義教育をベースに発展させたものだそうだ。

私の手元にあるのが1974年13刷のものであるので、結構なベストセラーであったと思われる。かなりの部数が発行されたのではないだろうか?

今も明治図書の復刊リクエスト名前が挙がっている。

  

教科方面はともかく、こと「学級」や「生活指導」にかかわるものについては

「学級集団づくり」vs「学級経営」といった対立があった模様。

 

教組全盛期には「学級集団づくり派」が隆盛を極めたであろうことは疑問の余地がないであろう。

下記の「滝山コミューン一九七四」は、表面づらだけみると平和だっただろうが実情はそうでもなかった…という児童目線の感想(後年かかれたものである)が興味深い。


だが、現実としては、そうそう話術や人心掌握の上手い先生ばかりじゃないわけで、「表面づら」すらもうまくいかないってのは現場で多発したわけである。それが「いじめ」であり「校内暴力」とか「学級崩壊」といったものではないだろうか?

 

最近に至っては、問題が長年続きすぎたために教職員も保護者もそういったものに巻き込まれた世代となってきたというのが「モンスターペアレンツ」とかいう現象なのではないかと思われる。

 

思想ベースの理論先行で、教育に関する評価があまりなされず、教育の場が「密室」となってきたというところにメスを入れるといった意味で「教育」を統計的な手法で見てみるといったことは有用だろうと思うと同時に、なぜこのような迷宮路線にはまり込んだのか?というところの検証も必要なのではないかなと思う。

 

教組の組織率が下がった現在ではあるが、学級運営に関する書籍には「集団づくり理論」なるものの影響はまだまだ色濃いようである。

 


 

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