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曇天とこしあん。

なんの代わり映えもない毎日。
大層な夢を描くことができるほど大した人間じゃない。
ああ、退屈な人生だ。
今日も雲がまだらに流れる空を見つめて息を吐いた――。

猫と世界。

綺麗な家がある。
門扉のまわりには季節の植物が。
夜になれば暖かい明かりが灯り住人を迎え入れてくれる。
そんな家で私は暮らしていた。
いびつな家とは誰も想像がつかないであろうこの家で。
どれだけ綺麗に梱包したって、どれだけ丁寧にのし紙を張りつけたって、中身が空っぽじゃ商品として成り立たない。

小さい頃から物覚えがよかった。
この子はできると周りから囃し立てられ、両親も満更でもなかったのだろう。
そのうち親戚までしゃしゃり出てきて、エリート街道まっしぐらの伯父には大きくなったら伯父の母校である、この地域では名の知れた名門高校・大学に進学するよねと言われる始末だった。
これが私の人生のレールだった。
母は私がテストでいい点を取ってきたり、通知表に並べられている先生からの賞賛の言葉を見たりする度に笑顔になった。
子どもにとって母親の笑顔は正義だ。少なくとも私にとってはそうだった。母が笑ってくれること、それが何よりのご褒美だったのだ。
反対に父は、テストの点数や通知表の評価が少しでも下がると厳しく𠮟責し、目の前でテストをビリビリに破られたこともあった。
私は母の笑顔が見たい、父に認められたい一心で努力した。
それはもう努力した。
次第にそれらは呪いへと変わっていった。

真っ直ぐにただ両親や親戚、私以外の誰かのために頑張っていたんだ。
そう気づいたのは綺麗に敷かれたはずのレールを逸れ、道も信号も何もない先が見えない無法地帯に放り出されたあとのことだった。

運動部が引退し、受験の色が濃くなり始めた頃、私はとても焦っていた。
私が所属する文化部は運動部に比べて引退が3ヶ月ほど遅い。
勉強しなければ。運動部の子たちはきっと私の何倍も勉強時間を確保できているはず。ここで大きな差が生まれてしまうかもしれない。志望校に合格できないかもしれない。
不安は募るばかりだった。
そんな不安を吐露できる場所はどこにもなかった。
両親や親戚にとってのできる私、顧問や同級生にとっての頼れる私、後輩にとっての慕える私。
周囲から求められる私を完璧にこなせられなければ私に価値はないと思っていた。
何枚も何枚も鎧を身にまとい生活していた。
不思議と苦しいとは感じなかった。だって物心ついた頃からこうだったから。
睡眠時間や娯楽の時間を削って、勉強や部活の仕事をする時間に充てていた。

無事部活を引退したあと、私は娯楽という娯楽をすべて排除した。
LINEを始めとするSNSをすべてアンインストールし、YouTubeや音楽配信サービスもアンインストールした。
両親との連絡にはメールを使った。
朝起きて勉強し、学校でも勉強し、帰宅してからも食事と入浴の時間以外は勉強に充てた。
そんな努力の甲斐あってか、無事に第一志望の高校に合格できた。
仕事中の両親に結果を知らせる電話をしたところ、母は泣いて喜び、父はさも当然というような反応だった。

ここまでは完璧だった。
みんなの思う私でいられた。

高校に入学して早々にテストがあった。
中学生の頃は常に上位をキープしていた私だったが、このテストの結果で自分は井の中の蛙だったと思い知らされる。
それは次第に恐怖へと変わっていった。
どうしよう。
母の笑顔を見られなくなるのは嫌だ。父や親戚に落胆されるのも嫌だ。
このままじゃ私は価値のない人間になってしまう。

――あれ、私、何がしたいんだっけ。

ふとたったひとつ、小さな疑問が思い浮かんだ。
綺麗に敷かれたレールの上を器用に歩んでいく。
これが私の人生であり、運命だと信じていた。
それを成し遂げられればみんなの思う私でいられて、みんな喜んでくれる、認めてくれる。
でもそこに私の意思や感情はない。
気づいてしまった。

それからの私は高校入学と同時に解禁していたSNS、インターネットの世界に入り浸るようになった。
初めの頃は母は心配し、宥め、学校へ行くよう促した。
父は案の定厳しく𠮟責した。
今まで呪詛のように聞こえていた言葉たちは、意味のわからない呪文のように聞こえた。恐怖は感じなかった。
そんな私の態度に呆れたのか、父は私に関わらなくなっていった。

インターネットには様々な大人たちがいた。
私を女として見てきて性的なことを要求してくる人たち。
私を子ども扱いしてコミュニティの輪にいれてくれない人たち。
若いという事実だけで目くじらを立ててくる人たち。
中には今まで誰にも吐露できなかった経験や感情に耳を傾けてくれる人たちもいた。
インターネットとは刹那的な場所だ。
ボタンひとつでその世界から自分がいなかったことにできる。
有象無象の中から私の意見を聞いてくれる人や、私の味方になってくれる人を選んで関わり、いなくなれば代わりを補充した。
こうして私はインターネットという広く自由な世界で居場所を作っていった。

夏休みに突入する頃、担任が家を訪れてきた。
このままだと出席日数が足りず留年することになることを告げに来たのだ。
その夜のことだった。
いつも通り自室にこもっているとリビングに呼び出された。
ダイニングチェアに腰かけると、両親が私に向き合って謝罪してきた。
必要以上にプレッシャーをかけてすまなかった、と父が。
しんどいのに気づいてあげられなくてごめんなさい、と母が。
たったそれだけ?
そのひと言で今までのことを清算しようとしているのか、この大人たちは。
そう思うとふつふつと怒りが込み上げてきた。
そして、せめて高校は卒業してほしいと言われた。
今思えば私の将来を思っての発言だったと理解できるが、当時はどうせしょうもない体裁を気にしているだけなんでしょうと呆れていた。
その夜はなかなか眠れなかった。
怒りと失望、期待に応えられなかった自分の不甲斐なさ、そして何よりも期待に応えられなかったお前はもういらないと言われたようでとても悲しかった。

両親、特に父への嫌悪感を抱きながら、私は通信制高校に編入し、他は特段変わらずインターネット上で生活していた。
小さい頃から父に挨拶や礼儀といった人としてのマナーを叩き込まれていたからだろうか、大人たちに見てもらいたい一心で背伸びをし続けていたからだろうか。
理由はわからないけれど、私が自分から高校生だと明かすまで私の年齢に気づかない人がほとんどだった。

数あるコミュニティのひとつだった。
そこで私はとある男性と知り合う。

猫、懐く。

そのコミュニティは10代から40代まで、幅広い年代が集う場所だった。
私はそこではすずと名乗っていた。
由来は簡単なもの。来世では猫になりたいと思っていたから、猫が身につける首輪についている鈴。
幸いにも主であるおじさんには好かれ、その他メンバーも男女問わず1人の人間として扱ってくれる居場所だった。
好かれるのは簡単だった。
きちんと挨拶をし、相手との距離感を探りながら会話をする。
私はあなたに興味がありますよという姿勢を見せることも忘れずに。
ここだけ切り取れば嫌な人かもしれない。
けれど事実、私は好奇心旺盛で知識欲もすごく、知らないことは知りたがり、見たことのない世界は見てみたいという性格だった。
インターネットにいるほとんどの人間が、現実世界で何か問題があったり、現実世界で解消できない欲求があったりするのは、なんとなく察していた。
もちろん私もそこに含まれる。
だから私は私がしてほしかったことをしていた。
丁寧に話を聞き、必要であれば助言をしたり褒めたりする。
そうすれば相手の要望に応えられ、私も認めてもらえる。
win-winじゃないか。そう思っていた。

あの日もそうだった。
話したことのない人がいるなと思い、飛び込んだボイスチャット。
いつも通り、愛想よく挨拶をした。
「はじめまして、こんばんは。すずと申します」
違和感を覚えた。
「…こんばんは」
相手が返答を言い淀んだ感じがしたからだ。
他の人たちは気にも留めず会話を続けている。
気のせいかな。もしかしたら少し無愛想な人なのかもしれない。
そう言い聞かせて会話に参加したけれど、感じた違和感は最後まで拭えなかった。

それからも彼と遭遇することは何度もあった。
でもやっぱりみんなと違う。
感じた違和感は本当だったらしい。
話を丁寧に聞いても、私なりの見解を述べても、喜ぶこともなければ褒められることもない。
むしろ、そんな風に接しなくていいと言われているようだった。

そんな彼の態度に私の好奇心がくすぐられ、私は彼が醸し出すオーラを全部無視して彼と積極的に関わりにいった。
今思えばしつこいと言われても仕方ないくらいに。

そんな彼とひょんなことから距離がぐっと縮まった。
あれはそう、私と歳の近い女の子の恋愛相談を受けていたときのこと。
今までもいろんな相談に乗ってきていたし、同じように彼が相談に乗っている場面に居合わせたこともあった。
私たちの意見はほとんど同じで、彼の言うことは至極真っ当だと思っていた。
このとき初めて彼と意見が食い違ったのだ。
相談内容は、簡潔にまとめると遠距離の彼氏がいて、虫の居所が悪いと暴力を振るわれる、ということだった。
彼はそんな彼氏とは別れてしまえと一蹴したが、私はそう言い切れなかった。
彼女はまだ彼氏のことがすき。でも暴力を振るわれるのは嫌だし怖い。
その気持ちはわかると共感した上で、私は彼氏のことを暴力を振るってくる一面も含めてすきならば一緒にいればいい。
でもそうじゃないなら別れた方がいいし、今はそう思えなくても将来そう思えばそのとき行動すればいいと伝えた。
私と彼の結論は同じかもしれないけれど、過程が違う。
なぜそうなったのか、彼女自身はどう感じているのか、そこを聞かないとよりためになる助言はできないと私は思っていた。
当事者の彼女は言いたいことが言えてすっきりしたのか、ボイスチャットを去っていった。
そして、残された私たち2人。
少しの間、気まずい空気が流れた。
沈黙を破ったのは彼だった。
「なんでそこまで親切にするの」
少し呆れた様子で尋ねてきた。
「なんていうか、過程も知らないのにその事実だけを切り取ってアドバイスするのは違うかなって。彼女も彼女なりの心境とかあるでしょうし」
「ふーん」
納得いかないと言わんばかりの返答だ。
「すずちゃんさ、あんまり深入りしない方がいいよ。自分まで持っていかれるよ」
「大丈夫ですよ~。ご心配ありがとうございます」
いつも通りへらっと笑って返すと、真剣な声で返ってきた。
「無理してるでしょ。今日だけじゃない。今までも」
無理?そんなものはしているつもりはなかった。
ただ、"今までも"というフレーズが引っかかって、彼に問うた。
「いちさんの目には、私はどんな風に映っているんですかね」
少しの間沈黙があって、ふぅとひと息ついた音が聞こえた。
「正直、正直に言って君は大人を演じているように見える」
大人を演じている、か。外れてはいない。
「そうですかね?私は私のままですよ」
人に興味が人一倍あるくせに警戒心は強い私。
心から信頼していい人なのか見極めるために敢えてそう返した。
「俺が…って言っても時代も違うからあれなんだけどさ、17歳ってまだ子どもしてていい年齢なんだよ。君をここまでさせたのは何?」
彼から私に興味を示してくれたのは初めてのことだった。
今までも世間話で私が聞いた質問をオウム返ししてきたことはあったけれど、きちんと彼と同じ土俵で相対したのは初めてだ。
彼がやっと同じ土俵に上がってきてくれた。
ならば私も素直に応えなければ。
「わかりました。長くなると思うんですけどいいですか?あと人に聞かれるの嫌なんで場所変えませんか」

さっきまでいたコミュニティ内のボイスチャットを抜け、個人通話をすることにした。
「すみません。ありがとうございます」
「いいえ」
本当に長くなりますよ、と前置きをして私は過去から現在に至るまでの状況や当時の心境、今の心境を語った。
何も整理できていない、時系列もぐちゃぐちゃな私の話を、彼は時折相槌を打ちながら静かに口を挟まず最後まで聞いてくれた。
「あれ…」
私の頬には涙が流れていた。
今までこんなことなかったのに。
でもすぐに涙の理由に気づいた。
ここまで素直に、等身大の私の言葉で、今までのいいことも悪いことも話せたのは初めてだったからだ。
泣いている私に気づいているはずなのに、気づいていない素振りをしてくれている彼には感謝の気持ちしかなかった。
きっと、私が人前で仮に通話越しでも泣いているところを見られるのが嫌だってこと、彼は察してくれているんだ。
ありがとう、いちさん。

猫と世界が交わるとき。

あの日を境に、私といちさんの関係は始まった。
恋人や友人といった言葉では表せない関係。
コミュニティでは変わらず2人して相談に乗ったり、みんなと雑談を楽しんだりした。
でもそこを抜ければ2人だけの世界だ。
私は本当の居場所を見つけられたのかもしれない。
日常生活の些細な出来事も共有し、小さな悩みも彼に相談した。
彼は一緒に喜んでくれて悲しんでくれてアドバイスをくれた。
それはいつも的を得ていてとても参考になったし、何よりも心強かった。
私が私の話をしたように、彼もまた彼自身のことを教えてくれた。
会社を経営していること、離婚歴があること、インターネット上に胸を張って大人と言える存在が少ないと考えていること、哲学や小難しいトピックがすきなこと。
挙げ出したらキリがないくらいたくさん教えてくれた。
朧気だった輪郭がくっきりとしていく様を見ているようで楽しかった。
私はこういう何気ない日常から得られる安心感を求めていたのだと気づいた。
そしてそんな安心感を提供してくれる彼に感謝の気持ちでいっぱいだった。
何度も下手くそなりに感謝を伝えた。
仲が深まれば深まるほど照れくさくなって感情表現が苦手になる私。
それを知っているからか彼は私の言葉の機微に気づいて汲み取ってくれた。
なんてすごい人なんだろう。素直にそう思った。

と同時に不安がよぎる。
いちさんは私にたくさんのことを教えてくれて、私はたくさんのものをもらっている。
じゃあ私は?私は何か彼に還元できているのだろうか。
考え出したら止まらなくなって、とてつもない不安に駆られた。
思わず彼に聞いてしまった。
「ねえ、いちさん。すずはたくさんのものをもらっているけど、すずはいちさんに何かお返しできてるのかなあ?」
少しきょとんとした様子を見せたあと彼は言った。
「お返しかあ。考えたこともなかったな」
そして続けた。
「何もいらないよ。っていうか十分もらってる。すずと話せるだけで俺はうれしいんだよ」
「でも」
でもそれじゃ私が納得いかない。
彼もそれを察したのだろう。
唸り声をあげてしばらく考え込んだあと「あっ」と声を上げた。
「すずのさ、本名、教えてくれない?」
いつも自信に満ち溢れた物言いをする彼には珍しく、少し怯えたような様子で尋ねてきた。
そんな彼に呆気を取られて返答のない私に焦ったのか、少し早口で彼は続けた。
「前にすずのこと話してくれたときにご両親からもらったものの中で、本名だけは気に入っていて大切だからあまり人には教えたくないって言ってただろう?だから、その大切なもの、俺にも教えてくれないかなあって」
調子乗りすぎたかなとぼやく彼がなんだか可愛らしくて、思わずふふっと微笑んでしまった。
「あこ」
「あこ?」
「本名。あんずの杏に胡蝶蘭の胡で杏胡」
「杏胡…杏胡かあ……」
彼は愛おしいものを抱きしめるみたいに何度も私の名前を口にした。
私は恥ずかしくって思わず携帯電話から顔を逸らした。
何も彼に実際見られているわけでもないのに。
そんな私をよそに名前を連呼するのをやめた彼は、また先ほどと同じ様子で控えめに聞いてきた。
「ちなみに由来って聞いていいの?」
「いいよ。1番は響きがしっくりきたんだって。そこから漢字探し始めて、杏を採用したのは、あんずの花は美しくて実はおいしいから容姿も中身も素晴らしい人に育ってほしいって願いから。胡は悪い意味も多いらしいんだけど私11月生まれじゃん?陰暦11月の異称だからっていうので決めたらしいよ」
「素敵な名前だね。すずにぴったり」
「ありがとう」

そこから時折、本名で呼ばれるようになった。
私にとってハンドルネームは、"私"という人間と"すず"という人間の間にある壁のようなものだ。
その壁を経て見えている私を都合よく使ってくれればいい。
それが彼に本名で呼ばれる度に、しかも愛おしそうに呼ぶものだから、なんだかとても恥ずかしかった。
と同時に感じたことのない気持ちもあった。
それがなんなのか見当もつかなかったが、当時の私は見なかったことにすることにした。
今思えば、本能が詮索するのはやめておけと言ったのだと思う。

いつも通り、彼と日常の共有をしているときのことだった。
そこには穏やかな空気が流れていた。
「あれ~?いないの~?」
女の人の声。胸騒ぎがする。
「あ、ごめん。すずちょっと待ってて」
それだけ言い残して彼はいなくなってしまった。
さっきの少し甲高い声が頭の中でこだまする。
待っている時間が数分にも数十分にも感じた。

「ごめん、ただいま」
「うん、おかえり」
何も気にしていないようなそぶりで私は返した。
「あれ、さっきの、元嫁。職場から俺の家の方が近いからって忙しいときとか遅くなったときとかにふらっと来るんだよ」
「そうなんだ」
へえ、元奥さん、ね。
ふーん。
そんなことを考えていると電話口から「ちょっと、おい」という彼の焦った声が聞こえた。
「もしも~し。あなたが噂のすずちゃん?」
突然のことに困惑していると、その女性はごめんなさいねと続けた。
「驚かすつもりはなかったの。ただあの人が最近やたら機嫌がいいものだから、どういうことかなって気になってすずちゃんの話を聞かせてもらってたのよ。そしたら私もあなたに興味湧いちゃって。よかったら今度3人でごはんでもどう?」
「え、あの、えっと…」
「まあ考えておいて」
じゃ、と元奥さんは言いたいことだけ言って嵐のように去っていった。
「ごめん、すず」
「あ、なんか、その、パワフルな人だね?」
「昔からああなんだよ。ノリと勢いで物事進めるタイプ。ごめんな、びっくりしたよな。気にしなくていいから」
確かにびっくりはした。だけど好奇心の方が勝って深く考えずに彼に言った。
「いいよ。ごはん行こうかな」
「え」
私も案外、ノリと勢いで物事を進めるタイプなのかもしれない。

そこから3人のグループチャットが作られて、あれよあれよと事は進んだ。
何回も彼からは本当にいいのか?本当に大丈夫なのか?と確認されたけれど、日が近くなるにつれて緊張よりも楽しみの方が勝ってきていた私は、何着ていこうかなあなんて呑気なことを考えていた。

変わり始める世界。

ついにやってきた。
いちさんと元奥さん、そして私の3人が相対す日が。
相対すというと大げさかもしれないが、そのくらいの心持ちで私はいた。
この日が来るまでも変わらず彼とは話していた。
そこで彼は、本当は初めて会うのは2人がいいなと考えていたこと、でもいくら仲がいいとはいえまだ10代の女の子と2人きりはまずいかと思っていたこと、もしかしたら私が実際に会うのは嫌だと感じているかもしれないと危惧していたことを教えてくれた。
知らないところで彼は色々考えてくれていたんだな。
そんなこととはつゆ知らず、吞気に構えていたのが申し訳なかった。

黒いニットワンピースを身にまとい、編み上げのショートブーツを履き、夜の繫華街へと向かった。
指定されたのは駅から少し歩いたところにあるバーだった。
バーといってもマスターがいて、大人の男女がしっぽりお酒を嗜むようなところではなく、もっとカジュアルで居酒屋とバーの中間のようなところだと聞いている。
それなりに賑わっているし、変な目立ち方はしないだろうと踏んでそこに決まった。
マップを頼りに歩いていくと目的地に着いた。
いざお店を目の前にすると急に現実味が帯びてきて緊張してきた。
変じゃないかな。
手鏡を取り出し容姿を確認する。
よし、いざ参らん。大丈夫だこうやってふざけられるのだから。

階段を登り、言われていた席を探す。
「…すず?」
聞きなじみのある声。
振り向くと1人の男性が立っていた。
「いちさん?」
「うん。席こっちだよ」
連れられた席には誰もいなかった。
「あ、あいつまだ仕事終わらないらしくて遅れるって。少しの間だけど2人になっちゃうんだけどいいか?」
大丈夫と答えると彼は安心した様子で飲み物を注文しに行ってくれた。
席に腰かけ、物珍しい風景を眺めていると彼が戻ってきてひと言。
「綺麗だな」
「え、あ、ありがとう?」
「話には聞いていたけど、いい意味で17には見えない」
「うん、よく言われる」
私は昔からよく言えば大人びて見えて、悪く言えば老け顔なのだ。
「あ、改めまして、すずです」
ぺこりと頭を下げると、彼も私に倣って挨拶をしてくれた。
緊張や気まずさを感じていたからか、話題はもっぱら所属しているコミュニティのことだった。

「お待たせ~」
現れた女性は思い描いていた人物像とはかけ離れた人だった。
彼から事前にもらっていた情報は、彼と同じく会社を経営していることだけ。
きっとTHEキャリアウーマンのような女性が来るだろうと思っていたのだ。
実際はそんなことはなく、花柄のスカートがよく似合う柔らかい雰囲気を持った女性だった。
私は立ち上がり、挨拶をした。
そんな私を見て、どこか幼さが残るような笑みを浮かべ、隣にやってくる。
「そんなかしこまらなくていいよ~。座って座って。あ、アイラです。よろしくね、すずちゃん」
「よろしくお願いします」
アイラさんの分の注文を済ませ、飲み物片手に戻ってきた彼も交え話していると、アイラさんに私たちの距離感を指摘された。
「あなたたち、仲、いいんだよね…?」
「緊張してるんだよ」
彼が答える。
雰囲気を察してくれたのか、会話の主軸はアイラさんが担ってくれた。
それに私たちが参加するような形で時間が過ぎていった。
改札まで送るという彼の申し出を断り、お店の前で解散した。

会ってからも私たちの関係は続いていた。
ただ1つだけ変わったことは彼が、私たちが出会ったコミュニティを抜けたことだ。
追い出された、という表現の方が正しいかもしれない。
その日は通っている通信制高校の進級テストの日で、私は朝から学校にいた。
マナーモードにしている携帯電話が頻繫に震えていたのをよく覚えている。
休み時間に確認した内容に私は驚きを隠せなかった。
主からは仲良くしていたのに申し訳ない、と。
彼も交えて仲良くしていた数人からは動揺と心配の連絡が。
そして彼からはもう決まったことだから正義感は押し殺して、すずの立場まで危うくなるようなことはしなくていい、と。
彼は主にとって目の上のたんこぶだった。
主は唯我独尊タイプで、自分よりも慕われ頼られ、周りに人が集まる彼のことが疎ましかったのだろう。
コミュニティにおいて主は王である。どんな理由があろうとも人を加えるのも減らすのも主のさじ加減。
そんなことは重々承知している。
だが、こればかりは納得がいかなかった。
わざわざ私に入れた連絡も自分の体裁を守るためにしか映らなかった。
それ、ただの嫉妬じゃん。子どもなの?
主に対しても、そんな人が運営するコミュニティに対しても懐疑的になった。
帰り道、思ったことを感情的に彼に伝えた。
彼は諭すように、あのコミュニティがなくても俺たちは繋がっていられるじゃないか、だから大丈夫だと言った。

それから間もないうちに、彼がコミュニティを自ら作った。
彼が仲良くしていた人たちや、さらにその人たちの友人が集まった。
そこにはもちろん私もいて、アイラさんもいた。
また新しい人間関係が構築できるという期待と、私の知らない彼を知る人たちもいて、その人たちに受け入れてもらえるのかという不安が混在していた。

彼のコミュニティでの立ち回りは特に変わらなかったけれど、周りの人たちの反応が違った。
インターネットの世界に来たての頃に味わった、無力感や屈辱、そういった負の感情を抱かされた。
特に、"若い女の子"というだけで会話に混ぜてもらえなかったり、目くじらを立てられたりすることが堪えた。
そのとき、前のコミュニティでは良くも悪くもみんな私に無関心だったということに気づいた。
無関心だからこそ、普通に接してもらえて、その人たちの都合に合わせて都合のいいように扱われていたんだ。
win-winじゃないかと感じていたはずなのになんだか悲しかった。

そして目に見えて彼と2人の時間が減った。
というのもかつての私のように彼に懐き、しつこくつきまとう女の子が現れたのだ。
つきまとうと言うと失礼かもしれないが、彼から困っていると聞いていた私にはそのように映った。
彼女は私よりも年下で、甘え上手で、私が持ち合わせていないものをすべて持っているような女の子だった。
優しい彼のことだ。彼女のことを無下にはできなかったのだろう。
通話に誘っても『ごめん今、amiにつかまってる』と返信が来る。
大丈夫。いい子にするのは慣れている。
私は本当は彼に話したかったことを別の人たちに話したり、他のコミュニティを探したりして気を紛らわせた。
だけど、得られていた安心感で満たされていた心は寂しいと叫んでいた。
5歳の子どもがぬいぐるみを抱えて涙するように。

猫の決意。

昔から私たちを知っている人には心配されたが、大丈夫だよといつも通りへらっと笑って返していた。
大丈夫。大丈夫。少し前に戻っただけ。
そう言い聞かせるけれど心は理解してくれなかったみたいだ。
眠れない夜が増えた。
不安が不安を呼び、私の心は暗く黒いもので覆いつくされていった。

そんな日々が続いたときのことだった。
自室でぼーっとしているとリビングから鈍い音が聞こえた。
今までも何度か聞いたことのある音だったけれど、このときは確認しなければならないと強く感じた。
ドアを開けると、父の声が響いた。
嫌な予感がして駆け足で階段を下りると俄かに信じがたい、いや信じたくない光景が広がっていた。
散らばったリモコンやクッション、割れて破片が散らばっている写真立て、床に座り込む母の姿、息の荒い父の姿。
一瞬にして、父が物にあたり、母に飛び火したのだと悟った。
皮肉なことに、母が拾う破片のすぐそばには私の高校入学の記念写真があった。
そこに写る、笑顔の母はもういない。
私はただ立ち尽くし、その光景を見つめることしかできなかった。
しばらくして父が去っていき、母は大丈夫よと私に言うと部屋を片づけ始めた。

私のせいだ。
私がいい子じゃなかったから。
私がみんなの期待に応えられなかったから。
私が、私がすべてを壊した。

自室に戻ると力が抜けてその場にうずくまった。
涙が床を濡らし、視界が歪んでいく。
私が泣く資格なんてないのに。
身体中の水分がなくなるんじゃないかというくらい泣いた。
そして決めた。

まだぎりぎり終電が残っているくらいの時間。
お財布と通帳、パスケース、イヤホン、携帯電話。本当に必要最低限の物だけ持って、両親が就寝しているのを確認して家をあとにした。
行く当てはない。
お金もある程度ならあるし、身分確認をされない限り、数日はどうにかなるだろう。
どうにかならなくなったら、こんな無価値な人間、消えてしまえばいいんだ。
野良猫とすれ違った。そう、来世は君みたいな誰も傷つけずに済む猫になれればいいな。

暗い道を進む。
方向だけ決めて来た電車に乗った。
数駅過ぎた頃、握りしめていた携帯電話が通知を知らす。
『いち:起きてるか?』
何も考えずに返信をした。
『起きてるよ』
返事はすぐに来た。
『少し話さないか』
『今、電車だからごめん』
『電車?こんな時間に?』
なんて返そうかなと考えているうちに電車が終着駅に着いた。
ここまでかあ。それなりに家から離れた場所だけれど県はまたげなかった。
ベンチに座り、空を見つめる。
このまま暗闇に吸い込まれて同化したい。そう思って目を瞑ったときだった。
携帯電話が震える。震え続けた。電話か。画面を見ると彼からの着信だった。
出ないのも申し訳ないか。
「もしもし?どうしたのこんな時間に」
「こっちの台詞だ」
電話口の彼は怒っているようだ。
「今どこにいる」
「……」
「怒らないから正直に答えて」
「…寺崎駅」
「何があった」
さっきとは打って変わって優しい、私の知っている彼の声だった。
私は事の顛末を淡々と彼に話した。
話していると他人事のように思えて涙は出なかった。
彼はしばらく黙り込んだあと、何かを決意したような再確認したような様子で私に言った。
「うちにおいで」

心配だから通話は繋いだままにしておいて、あともう電車もないだろうし、何より危ないからタクシーを使ってくれという彼のお願いを素直に聞き入れ改札を出る。
終電後の駅前ということもあってか、簡単にタクシーを捕まえることができた。
彼から告げられた住所を伝え、車に揺られた。
電話口からは時折がさごそと物が動く音が聞こえていた。
目的地に着くと見覚えのある人が立っていた。
その人は運転席の方へ回ると支払いを済ませてしまった。
ドアが開く。
おいで、と差し伸べられた手を取り、彼の少し後ろを歩いた。
日中なら明るく賑わっているであろう商店街を抜け、街灯のない橋を渡り、たどり着いたそこは少し古さを感じるアパートだった。
「お邪魔します」
おそらくリビングに繋がるであろう扉のドアノブに手をかけた彼が言った。
「自分の家だと思ってくれていい。あと、ある程度は片づけたけど散らかってるからそこは大目に見てくれ」
小さくうなずくとリビングの隣の部屋に通された。
ベッドと机とパソコンだけが置いてある部屋。
「なんか温かいものでも飲むか?」
春の気配がしてきたとはいえ、まだ夜は冷え込む。
お言葉に甘えてココアを淹れてもらった。
両手でカップを持ちひと口。
ほっとひと息つくとやっと現実味が帯びてきた。
私、あの家を出たんだ。私、彼の家にいるんだ。
きょろきょろと周りを見回していると、やめてくれと制された。
そんなに散らかってるとは思わないけどなあ。
大人しく言うことを聞くことにした。
何も聞かない彼と何も話さない私。
この前、バーで会ったときのように沈黙が流れていたけど、不思議と気まずさは感じなかった。
ココアを飲み干すと、彼は別室から布団を持ってきて、私にはベッドで眠るよう言った。
家主は彼なのだから私が布団を借りると言うと、この布団薄いからと。
ならなおのこと私が布団で寝る。
私の頑固さを知っている彼は困った顔をして、俺の匂いが嫌とかなら考えるけどそうじゃないならベッドを使ってくれと言った。
ここで拒むと彼の匂いが嫌と言っているみたいで嫌で、わかったとベッドに潜り込むと「あっ」と彼が声を発した。
「親御さんには連絡は入れてあるんだよな?」
「入れてない」
「せめて無事なことだけでも伝えてあげなさい」
優しく諭すように彼は言ってくれた。
でも、でも。
「嫌だ」
「どうして?」
「私はあの家にいない方がいいから。…ううん、あの人たちに私は必要ないから。だから少しでも早く私のことなんて忘れて新しく綺麗な家庭を築いてほしい」
彼は起き上がってベッドに腰かけている私の手をそっと握った。
「すずの気持ちはわかった。だけど例えば警察に捜索願でも出されたら困るだろう?すずが嫌なら俺がするから」
たしかに捜索願なんて出されたら面倒だ。
かばんから携帯電話を取り出し彼に渡した。
受け取った彼は何やら写真を撮りだし、携帯電話を操作していた。
「確認だけど、連絡入れておくのはお母さんだけでいいのか?」
「うん」
携帯電話を返されるとまたかばんにしまって、今度こそベッドに潜り込んだ。
「今日はゆっくりお休み」
頭上から優しい声が降ってくる。
久しぶりに感じた安心感を噛み締めながら目を瞑った。

猫とこしあん。

目が覚めると彼はもう起きていたようで、おはようと声をかけられた。
かすれた声でおはようと返すと、携帯電話が何回も鳴っていたことを伝えられた。
確認すると母からの着信履歴とメッセージがいくつもあった。
スクロールして1つずつ見ていく。
謝罪と心配の言葉たちが並んでいた。
そして昨晩、彼が送ったメッセージに行き着いた。
そこには、娘さんが落ち着くまでお預かりしますという内容とともに彼の運転免許証の写真、電話番号が添えられていた。
「もしかして、ママから電話あった?」
「うん。すずのこと、ものすごく心配してたよ」
久しぶりにゆっくり眠れたからだろうか、頭も身体もすっきりしていた。
「迷惑かけて、心配もかけてごめんなさい」
彼に頭を下げる。
「心配はかけてくれていい。あと迷惑だなんて思ってない」
それよりもこれからのことだと彼は言った。

起き上がり、彼と向かい合って話をする。
すずはどう思っているのか、これからどうしていきたいのかを問われた。
常に自分以外の誰かのために行動してきた私。
今までは誰かが決めてくれていたことを、これからは自分で考えて決めなきゃいけないということにこのとき初めて気づいた。
と同時に今まで感じたことのないくらい大きな恐怖が襲ってきた。
他の誰でもない自分が考えて、決めて、そして責任を取らないとならない。
理解すればするほど怖くてたまらなくなった。
思うように思考もまとまらなければ言葉にもできない。
そんな私の様子を察したのか、彼が口を開いた。
「怖いよな。辛いよな」
何度も頷く。
「焦ることはないよ。時間はある。ゆっくりじっくり考えればいいさ。帰りたいと思うまでうちにいてくれて構わないし」
わかった、ありがとう、と口にしながらも果たして彼の優しさに甘えていいのだろうかと考えていた。

それから、減ってしまっていた2人の時間を取り戻すかのように、たくさん、たくさん彼と言葉を重ねた。
彼は何も変わっていなくて、一緒に喜んでくれて悲しんでくれてアドバイスをくれた。
通話越しじゃなく目の前にいるからだろうか。
彼の感情がダイレクトに伝わってきて、以前よりも大きな安心感を感じることができた。
甘えるのはとても苦手だ。
でも、彼になら甘えていいかもしれない。
彼なら受け止めてくれるかもしれない。
そんな淡い期待を抱き始めた私は徐々に行動へ移していった。

パソコンとにらめっこしている彼に話しかけてみたり、眠れないから私が眠れるまで手を繋いでいてほしいと言ってみたり、お風呂上がりに髪を乾かしてほしいとねだったり。
彼はどんな状況でも私の要望に応えてくれた。
それだけで私の乾いた心は潤いを取り戻していった。
こんなこと両親には言えなかった、とこぼすと彼はとても複雑な顔をして私の頭を撫でた。

どこかでずっと期待していたのだ。
結果を残せなくても、つまづいて転んでも、頑張れなくなっても、あなたがいてくれるだけで生きていてくれるだけでいいと、存在を肯定してほしかった。
ずっと蓋をしていた心の奥の扉が少し開いた気がした。
そうか、私はこれに向き合っていかないといけないんだ。

1つ1つ思い返して、自分の気持ちに素直になって、その問題と向き合う。
決して簡単なことじゃなかった。
当時の私が潜在的に無視していた問題を掘り起こして、苦しい思いをして落ち込んで、少し元気が出たら向き合って考えて。
ゴールの見えないマラソンを走っている気分だった。

そんな私に彼は、時には父のように、時には兄のように、時には恋人のように寄り添ってくれた。

今思えば甘えすぎていたのかもしれない。
私にとって彼は大切な存在だ。
恋人や友人といった肩書きをつけられるような存在ではなく、どこまでいっても彼は彼だった。
だから次第に近くなっていく距離感に何も違和感を感じなかった。
でも彼は違ったみたいだ。

一緒のベッドで眠ることが増えた。
一緒にお風呂に入ることが増えた。
頭を撫でるという行為が抱きしめるという行為に変わった。
それらの変化に私は何も感じなかった。
今思えば、彼を男性として認識はしているものの意識はしていなかったのだと思う。
そして、今までの自分自身の感情や両親との確執に向き合うことに精一杯だった私は更なる問題、考えないといけないことを増やしたくなかったのだと思う。

いつも通りベッドで一緒に横になって話しているときのこと。
「すず、いつもそのぬいぐるみ抱きしめて眠ってるよな」
彼にそう言われた。
枕元にいるクマのようなぬいぐるみをじっと見つめる。
「一緒に眠ってくれてるなら名前つけてあげないと」
しばらく考えて、1つとてもしっくりくる名前が思い浮かんだ。
「こしあん!君は今日からこしあんだ」
満足そうにそのぬいぐるみを抱きしめる私を彼は愛おしそうに見つめていた。

それからも思考を巡らす日々が続いた。
ベッドに座り、こしあんを抱きかかえ考え込んでいる私に彼が声をかけてきた。
「すず、少し気分転換に散歩でも行かないか」
ちょうど考えに行き詰っていた私はふたつ返事で了承した。
近くの公園に行くことにした。
まだ昼間の陽気が残る道を歩く。
たどり着いたそこは遊具はあまりないけれど広々とした公園だった。
そして目につく春の色。
「桜だ」
「ちょうど咲いてる頃かなって思って来たけど、想像以上だな」
ブランコに腰かけ、ゆらゆらと揺れながら桜を見つめる。
そこにはゆったりとした時間が流れていた。
今日まで考えてきたことを思い返す。
これからどうしたいかはまだわからなかったけれど、今までの気持ちには素直に向き合えたはず。
すべてがそうとは言えないけれどきっと彼の言うように、これはこれからも時間をかけて向き合っていかないといけない問題なのだろう。
それならば、今はこれで及第点なんじゃないかと思えた。
ブランコから降りて、彼に告げた。
「私、明日帰るね」
ちょうど影がかっていて彼の表情は見えなかった。

その日の夜は別の布団で寝た。
微かに聞こえる鼻をすする音に気づいていたけど、私は気づかないふりをして眠りについた。
胸の奥、心臓のあたりがきゅっと締めつけられるこの感覚はきっと忘れられないだろうと思いながら。

鈴を外すとき。

翌朝、私はあの家に向かった。
別れ際、彼は何も言わなかった。
ただどこか寂しそうで名残惜しそうで、また胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「いちさん、ありがとう。じゃあね」
「気をつけてな」
バタンと閉まる扉をしばらく見つめて私は彼の家を去った。

ほんの数週間ぶりの景色は、どこか懐かしかった。
門扉を通り、玄関を前に深呼吸をする。
大丈夫。私は今できる最大限のことをした。頑張った。
意を決して扉を開けるとリビングからパタパタと走る音が聞こえたあと、母が私に駆け寄り抱きしめてきた。
「おかえり」
私は母の肩に手を回した。その肩は少し震えているようだった。
「ただいま」
今まで両親から得られた覚えのない愛をそのときたしかに私は感じた。

リビングに入ると嗅ぎ慣れた家の匂いがした。
ああそうか、ここは私の家なんだ。
母とゆっくり話をした。
今までの素直な気持ち、それらを受けて今私が感じていること。
時折詰まりながらもすべて言葉にできた。
母の顔を横目に見ると母は泣いていた。
そして私の手を取り、何度もごめんね、ごめんねと繰り返した。
そこで私は今日までの母の心境や行動を初めて知ることになる。
周りの期待に応えようと一心に頑張る私になんて声をかければいいかわからなかったこと、徐々にヒートアップしていく父の私への言動に苦言を呈していたこと、それでも止められなかったこと、どんどん我が子が遠くに行ってしまうような感覚を覚え少し寂しかったこと、家から出ていくまでSOSに気づけなかった自分は母親失格だと思ったこと。
初めて母の胸の内を聞き、母も母親である以前に1人の人間なのだと気づいた。
そう思うと母の気持ちも理解できる。
母は私の存在を確かめるようにゆっくり抱きしめた。
「ママは杏胡ちゃんが生まれてきてくれて幸せ。今回のことがあってすごく不安だったけど、人様の迷惑になるような、警察のお世話になるようなことはしないってママ信じてるから、今度こそ自分の人生を生きて」
そこまで言うと母は私に向き合って、眉を下げながら言った。
「…もしママのこと許してくれるならそれを近くで見守らせてください」
母の飾らない真っ直ぐな言葉は私の心にしっかりと届いた。
「ママ。改めて心配かけてごめんなさい。私、ずっと苦しかった。でもママの話を聞いて納得いく部分もあって少し楽になった。ありがとう。これからどうなるかまだわからないけど、私はそれをママに見守っててほしいよ。できれば困ったときとか辛いときはそばにいてほしい」
もちろん、と言いながら深く頷く母の姿を見て、やっと本当に親子なのだと、私は愛されているのだと実感できた。

自室に行き、携帯電話を操作する。
『いちさん、ママとちゃんと話せたよ。やっとわかり合えた気がする。いちさんのおかげ。ありがとう』
返事はすぐに来た。
『よかったな。すずが頑張ったからだよ』
少し素っ気なく感じたけれど、気のせいだろうと流した。

それから数日。
母とは良好な関係が築けている。
父には母から話をしてくれたようで、少しずつ、本当に少しずつだが歩み寄りの姿勢が見られるようになった。
家族の再構築というと大げさかもしれないが、私たちは少しずつ私たちの家族の形を探していった。
次第にインターネットと距離が生まれていった。

両親との問題の解消の目処がある程度立った頃、今まで見て見ぬふりをしてきた彼との関係に目が向くようになった。
今まで感じてきた違和感や、薄々気づいていた彼からの好意に向き合わないといけないと感じた。
そうじゃないと、今まで彼が私に向き合ってくれた時間や気持ちを無下にしてしまうような気がして嫌だった。

連絡は変わらず取っていたけど、彼からの返答はやっぱり距離感を感じるものばかりだった。
久しぶりに通話できないかと持ちかけると少しの間待ってくれと言われた。
私は素直に従うしかなかった。

そして約束の日。
お互いの近況報告をしたあと、彼はぽつりぽつりと話し始めた。
初めはすずにとっていい大人であれればいいと思っていた。
徐々に信頼を寄せてくれるのがわかってうれしかった。
頼りにしてくれて、自分との関係に居場所を見出してくれるのがとてもうれしくて、自分も同じようにすずとの関係に価値を感じ居場所にしていた。
次第にそれらは恋に変わっていって、愛に昇華した。
今までの関係や距離感では物足りなくなってしまった。
すずを俺のものにしたい。すずに愛されたい。
「なんとなく気づいてたと思うけど、すずの答えの予想もつくけど、俺のけじめとして伝えさせて」
「俺はすずが、杏胡がすきだ。愛してる」
それは鋭い刃のように私の心を刺した。
彼がどんな表情をしているのか容易に想像できる。
きっと私があの家を去ってから、いや、あの家で過ごしているときから彼は自分の気持ちに気づいて向き合っていた。
でも、私の抱えている問題の重さ、私の辛さを誰よりも理解していたから、今の今まで言葉にしてこなかったのだろう。
いちさん。あなたは最後の最後まで優しいんだね。
彼の想いに応えられないのがとても申し訳なかった。
恩を仇で返すとはこのことか。
でも、彼の真剣な気持ちに生半可な覚悟で応えることは失礼だし、彼の本意ではないと思う。
深く深呼吸をし、彼に告げた。
「気持ちはうれしいけど、応えられない。ごめんなさい」
そして今までの感謝を述べる。
いちさんと出会わなかったら今の私はいない。
いちさんがいてくれたから愛とは何か気づけた。
いちさんが見守っていてくれたから私は私自身と向き合えた。
全部全部、いちさんのおかげ。ありがとう。
我ながら残酷なことを口にするなと思った。
電話口からは嗚咽が聞こえてくる。
それもまた鋭い刃のように私の心をえぐった。
逃げたい。
本能がそう叫ぶ。
だけど頭がそうさせなかった。
愛とは何か、愛されるということはどういうことか、私は彼から学んだのだ。
この痛みも苦しみも受け止めないといけない。
愛は時に痛みも伴うのだと学び、受け止め、理解しないといけない。

落ち着いた彼はいつも通りの、私が知っている声でありがとうと言った。
きっとこの想いは忘れないし、すずと前みたいに接するには時間が必要だからしばらくは連絡も取れないと思うと告げられた。
甘んじて受け入れるしか選択肢はなかった。
「よし。今日はすずの卒業式だ。今度会うときは対等に、同志として会おう」
空元気な声で彼は言った。
「わかった。元気でね。今まで本当にお世話になりました」
「卒業おめでとう」
そう言い残して彼は去っていった。

それぞれの道。

あの日、彼との関係が終わった日から早いもので5年が経った。

あれからしばらくの間は心に穴が空いたようで寂しかったが、就職活動が始まり寂しさを感じる暇もないほど、慌ただしく日々は過ぎ去っていった。
それでも私の日常には彼が教えてくれたことが散りばめられていた。

20歳の誕生日の日。
携帯電話が通知を知らせた。
そこには見慣れた懐かしいアイコンと名前があった。
『20歳の誕生日おめでとう』
ありがとう、と成人式の前撮りの写真を添えて返信した。

それから少しずつ連絡を取るようになり、今では同志として関係を築いている。
今でも彼から教わることはたくさんあって、彼もまた私から学ぶものがあると言ってくれている。

私はやりがいのある仕事に就けて充実した日々を送っているし、彼も人生のパートナーを見つけ幸せに暮らしている。

あの2人で過ごした短く濃い時間がなければ、きっと今の私たちの幸せは実現しなかっただろう。
お互いに感謝の気持ちを忘れずに、それぞれの人生を歩んでいく。
例え道が交わらなくても、そこには揺るぎない幸せと明るい未来が待っているはず。
そう信じて、私は今日も青空のもとを歩いていく。

おしまい


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