僕は、コーヒーが飲めない。
薄暗い部屋にあるのは、乱雑に置かれた漫画としわくちゃの布団、それから夕飯に食べたカップ焼きそばのゴミ。
傍らの携帯電話からは、特に親しくもない女の寝息が聞こえてくる。
この女は僕より歳上なのに、気まぐれでわがままで小さな女の子みたいだ。
気まぐれとわがままの違いってなんだっけ。
まあいいや。
夜中に突然電話をかけてきては、かすれた声で僕の名前を呼ぶ。
その声を聞く度に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
この感情なんだっけ。
まあいいや。
僕の生活は「まあいいや」が大半を占めている。
そう言えば誰かが言ってたな。
「思考を巡らせることが出来る人と、何も考えられない人とどっちが幸せだと思う?」
あのとき、僕なんて答えたっけ。
まあいいや。
ああ、元カノか。
僕のまわりはよく喋る女ばかりだ。
元カノだって、すやすやと眠っているこの女だって。
女ってそういう生き物なんだろうな。
パソコンを閉じて立ち上がった。
新調したAirPodsを手に、ベランダに出る。
昼の湿度を残した風が飛び込んできた。
夏の夜の匂いがする。
いつから僕は、こんな詩的な言葉をさらっと思い浮かべられるようになったんだ。
でも嫌いじゃない。
室外機の上に置いてある、緑色の箱に手を伸ばす。
あ、忘れ物。
レモンティーを取りに冷蔵庫に向かった。
こいつらが揃わないと、僕は夜に浸れない。
咥えて火をつける。
歯車が回る音がどうも安っぽい。
まあいいか。
数ヶ月ぶりの煙草。
「やっぱり美味いな…」
煙が街の明かりに溶けていく。
この様を見るのが僕は好きだ。
数回吸って、ポケットからもう1台の携帯電話を取り出す。
気まぐれとわがままの違いを調べようと思ったのだ。
トップニュースが大きな文字で、新しいAirPodsが秋に発売されることを教えてくれた。
ため息をついた。
「僕はいつだってタイミングが悪いな」
スペックを重視していなくたって、新調して日も浅い今このタイミングでこのニュースは少しショックだ。
何を調べようと思ったのか忘れてしまった。
まあいいか。
頭に充満していく煙が誤魔化してくれるはず。
ただ、音に浸りながら、どこを見るでもなくぼーっとしていた。
音量ボタンを押す。音が侵食してくる。心地がいい。
煙草を消して、レモンティーを飲んだ。
世の喫煙者はコーヒーを好むと言うが、僕はコーヒーが飲めない。
煙草と共にコーヒーを楽しむ男性に憧れはあった。
でも僕には苦かった。
レモンティーは確かに甘い。コンビニで売っているようなものは尚のこと。
でも、この甘さが煙草の苦味と混ざり合って、身体を巡っていく感覚がこの上なく好きなのだ。
2本目…と思ったが、罪悪感から手は伸びなかった。
「優太くん?」
部屋に戻ると女は起きていた。
寝起きの甘ったるい声。
人工甘味料と女の声、ああ胃もたれしそうだ。
やっぱりコーヒーに挑戦すべきだったか。
数分前の自分を責めた。これも無駄な時間。
「どこ行ってたの?」
「煙草吸いにベランダ出てた」
「優太くん、煙草吸ってたんだ…」
デジャブ。女は喫煙者を嫌うんだった。
いや、今はもう世間全体が、か。
「何吸ってるの?」
「え?」
「銘柄。何吸ってるの?」
「…アメスピ」
「へぇ、若いのに渋いの吸ってるのね」
「……あなたも煙草吸うんですか」
「うん。私はマルボロ一筋」
「へぇ…」
「煙草の話してると、煙草吸いたくなっちゃうよね」
「よく言いますよね」
「私も煙草吸ってこようっと」
遠くで換気扇の音と、陽気な鼻歌が聞こえる。
寝起きでよく歌えるな。相変わらず声はかすれているけど、耳障りは悪くなかった。
女は戻ってくるなり、大げさな効果音と共にベッドに倒れ込んだ。
ミシミシとベッドが悲鳴をあげる。
数分後、またすやすやと寝息が聞こえてきた。
僕も眠ろう。
『おやすみなさい』とだけチャットを送り、通話を切った。
音に包まれながら、しわくちゃの布団で僕は眠りについた。
キッチンで湯気を出しているポットを忘れたまま。
まあいいや。
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