今日も308号室で、
「重なり合ったところで、幸せでいられたらいいよね。私たち」
***
月曜日。
***
午前8時。
目が覚めた。
何も考えずとも勝手に洗面所へ向かってくれる身体。
顔を洗って髭を剃り、Yシャツに着替えた。
そっと気配を消して、寝室の扉を再び開くと穏やかに寝息を立てている妻の姿があった。 気配を消さずとも彼女が目覚めることはまずないのだが、自分が立てた物音で安寧の睡眠を妨害したくない。
今日もよく眠っている。
またそっと扉を閉じ、今度は向かいの扉を開ける。
かの有名な北欧家具屋で揃えた、茶色を基調としたその部屋は、俺の仕事部屋兼夫婦の趣味部屋だ。
パソコンの電源を入れ、スケジュールの確認をした。
今日はミーティングが3件もある。週明けからハードだ。
飲み物を取りにキッチンへ向かった。
***
午前11時。
けたたましく鳴り響くアラームで目が覚めた。
寝起きとは思えないほどの素早さでアラームを止めた。
そのまま携帯電話を手繰り寄せ、布団にくるまってSNSを巡回する。
ひと通り済ませると、のそのそと起き上がり寝室を出た。
快適さを重視している部屋着は少し大きくて、ズボンの裾を引きずって歩いた。
キッチンへ向かい、電気ケトルでお湯を沸かす。
マグカップにティーバックをセットし、夫が回してくれていた洗濯物を回収した。
アイロンが必要なものとそうでないものを仕分けていたら、沸騰した合図が聞こえた。
右手に紅茶、左手は腰に添え、壁に掛けられているホワイトボードへと目をやる。 今日はミーティングが3件もあるらしい。大変だな。
ご丁寧に所要時間まで書かれている。
下線を引き矢印を伸ばし、ひらがなで『おうえん』と書いた。
さて、私も頑張りますか。
彼は私の応援にいつ気づくだろう。楽しみだ。
***
午後4時。
仕事がひと段落ついたので、休憩をすることにした。
昼に食べた菓子パンの袋がそのままだ。
この部屋にもゴミ箱はあるが、いわゆるキッチンに置かれるダストボックスほどの密閉感はない。
虫が大嫌いな妻は、このゴミ箱に食べ物、分かりやすく砂糖が含まれていそうな食べ物の袋を捨てるのが耐えられないらしい。
若干億劫ではあるが仕方がない。どうしてもこの部屋のゴミ箱に捨てたいわけでもない俺は、毎回素直に従っている。
終わったミーティングを消そうとホワイトボードに立ち寄ると、右肩上がりの文字が目に付いた。 ポケットから携帯電話を取り出し、写真を撮った。 頬が緩んでいるのが自分でも分かった。
彼女の優しさに、俺も何か返したい。
ごはんを作って帰りを待ちたいが、生憎まだ仕事が残っている。
――そうだ、お風呂掃除をしておこう。
暖かくなってきたとはいえ、夜はまだ冷える。
なるべく冷気に刺されないように防御して帰ってくる彼女の姿が浮かんだ。
首も肩も凝って仕方ないと言っていたし、温かい湯舟があったら喜ぶはずだ。
その様子を想像するだけでまた頬が緩んだ。
***
午後7時30分。
仕事が終わって帰路につく。
「ただいまー」
間延びした声が玄関に響き渡る。
夫はもう仕事を終えていたようで、リビングのソファに腰掛けてテレビを観ていた。
「ん、おかえり。今日も1日ご苦労様です」
「ありがとう。ちなみに、ご苦労様って目下の人に対して言うんだよ」
「あ、おつかれ様です」
少しおどけた様子で武士みたいに頭を下げた。
「うむ。くるしゅうない」
私も武士みたいに返す。
こうやって言葉ひとつひとつを捉えて、指摘してしまう癖がある。もちろん悪意も何もない指摘だが、不快に思う人は一定数いるだろう。
夫は嫌な顔せず、感心したり訂正したりしてくれる。
だから私はこの人と結婚したのだ。
「晩ごはんどうしようか」
「お昼遅かったし、俺はまだいいかな。結衣は?」
「それなりに空いてる。なんか適当に食べるかな」
冷蔵庫には大したものはなかったが、自分1人の空腹くらい満たせるだろう。
「今日外寒かったでしょ」
「寒かった。まだしばらく夜は冷えそうですねえ」
「そうですねえ」
夫は続けた。
「今すぐ食べないなら、お風呂先に入っちゃえば?どうせ面倒くさがって駄々こねるでしょ」
確かに。私はお風呂に行くまでが長い。今すぐごはんを用意する気力もなさそうなので、素直に従うことにした。
そうだ、この前買った柚子のバスソルトを使おう。
「はーい。じゃあ先入るね」
「うん」
お風呂場へ向かおうとすると、夫がスタスタとこちらにやって来る。かと思えば私の前を素通りして給湯器のスイッチを押した。そしてまた定位置へ。
「お湯張りをします。お風呂の栓を確かめてください」
いつものアナウンスが流れる。
私は頭の上には、はてなマークが3つほど並んでいる。
夫の後ろ姿に話しかけた。
「お風呂まだ洗ってないよ…?」
「俺、洗っといたよ」
夫の表情が見えた気がした。
こういうことをサラッと、しかも絶妙なタイミングでやってくるのだこの男は。してやられた感が否めない。嬉しいやら悔しいやら感情が忙しい。
「ありがとう」
「どういたしまして」
こういう人だから私はこの人と結婚したのだ。
***
午後11時。
「ねえ、なんで今日お風呂洗っておいてくれたの?」
「仕事の合間に時間あったから少し身体を動かそうと思って」
「ふーん。…それだけ?」
「うん」
「そっか。ありがとね。すごい温まった」
「それはよかった。あの入浴剤いい匂いだったね」
「ね。バスソルトだから発汗作用あるし健康的な感じする」
「バスソルトって言うんだ。勉強になった」
「また1つ賢くなりましたね、お兄さん」
「いつも情報をありがとうございます、お姉さん」
「やだ、なんかナンパっぽい」
「ええ」
***
「そろそろ寝るよ。おやすみ」
「うん、おやすみなさい」
***
今日もありがとう。また明日。
***
火曜日。
***
午前10時。
今日は昨日とは打って変わってゆっくりとした朝だ。
ぎりぎりまで布団にこもっていたせいか頭がまだぼーっとしている。
洗顔と着替えを済ませ、パソコンをつけた。
***
午前10時30分。
ほんの少しの物音で目が覚めた。
もこもこの靴下を履き、トイレに立った。
我が家は2LDKでリビング・ダイニングを挟んで部屋が2つある。
ここに決めたのは、朝に弱く人よりも長く眠る私の睡眠を守りたいという夫の気遣い。そしてお互いの1人時間を守るためだ。
トイレを済ませ扉の方に目をやると、なんとなく灰色の煙のような気配を感じた。特に気に留めずにいつものルーティンに戻った。
***
午後2時。
だめだ。今日は何もはかどらない。
幸い意味のないミーティングの予定はないが、くどくどうるさいお小言のメッセージが鳴り止まない。
眼鏡を外し、目頭を強く押さえた。
急ぎの仕事はない。午後の有休を申請して、お小言もすべて無視して寝室へ向かう。
部屋に入るとふわっと妻の香りがした、気がした。
自分の寝床に入り、布団に潜る。
妻は歯に衣着せぬ物言いをするが、内容や口調とは裏腹にとても柔らかい雰囲気を持っている人だ。そのアンバランスさがより一層魅力的に見せるのだろう。
彼女は出会った頃からそうだった。
俺たちは職場結婚で、ありきたりな話だが、俺が中途採用で入ってきた彼女の直属の上司だった。
その頃はお互いパートナーがいたし、職場にプライベートな感情を持ち込むのが嫌いな俺は、今思えば不自然なくらいに距離を取っていたと思う。
距離がぐっと縮まったのは彼女が退職することになったときだった。
理由を聞いても一身上の都合で、としか言わない。
あまりに俺がしつこく尋ねるものだから、埒が明かないと思ったのだろう。食事に誘われた。
どこにでもある中華の店で、独特な小籠包の食べ方がとても印象に残っている。
乾杯して、ゴクゴクとCMに起用されてもおかしくないくらいのいい音を鳴らしながら3分の2ほどグラスを空けひと言。
「私、退職の理由は話しませんからね」
思わず吹き出した。
「な、人が真面目な話をしているのに」
「ごめん。君があまりにも真面目な顔をするものだから、つい」
「いつもは呆けた顔をしているみたいじゃないですか」
眉間に皺を寄せながら、でも先ほどよりは柔らかい表情で彼女は言った。
それから月に一度飲みに行く、良き友人になった。
彼女は新しい仕事を始めたらしく、アルコールが入るといつも以上に饒舌に近況を聞かせてくれた。
時折愚痴も挟むものの、惚気とも取れそうなその話は、聞いていて心地がいいものだった。
そして何より、その話をする彼女がとても愛おしく思えたのだ。
「そう言えば指輪外したんですね」
「へ?」
我ながらびっくりするくらい間抜けた声が出た。
「喧嘩でもしたんですか?」
「まあ、ね」
「あらま…。答えたくなかったら答えなくていいんですけど、別れるんですか?」
「もう別れたんだ」
「そっか…じゃあ遊びたい放題ですね。そうしたら笹原さんは独身貴族ってやつになるんですか」
少しおどけた様子で言う彼女の優しさが温かい。
でも1つ訂正することがある。
「うん、でも俺、結婚してたわけじゃないからね」
「うんうん……えっ」
「うん」
「えっ、え、あ、ちょっと待ってください。いや誰も急かしてないんだけども」
「うん、そうだね」
可愛い。愛おしい。ずるい。
「え、だって、ずっと薬指に指輪してたじゃないですか」
「ただのペアリングだよ。しかも別れたのは随分前だ」
「まだ好き、とか」
「残念ながらそんなことはなくて。純粋にデザインが好きだし、物に罪はないだろう」
「うわ女子みたいなこと言いますね。もう飽きちゃったんですか?」
「不誠実な気がして」
「ふせいじつ…?と言いますと」
「好きなんだよね、吉村さんのことが。だから、君に不誠実だと思って」
困惑させたかと思い、彼女の横顔を盗み見たが、いつもと同じ凛としていて綺麗な横顔だった。
***
午後8時。
やっと仕事が終わった。
手早く帰り支度をして、職場を後にした。
『おつかれ様。仕事おわったよ』
電車に乗っても、最寄り駅が近づいても、夫からの返信はなかった。
最寄り駅に着いてもやっぱり返信はなかった。
朝のあの灰色のもやもやが気になって心配になる。
大丈夫かな。何かあったのかな。もしかして家に強盗が…なんて現実味の薄いことまで思いつくものだからたまらなくなって電話をかけた。
呼び出し音とともに不安が募っていく。
―――「もしもし」
「よかったあ…」
一気に呼吸が楽になる。
「ごめん、連絡くれてた?寝てた」
「うん、連絡してたけど平気。何か出来合いの物を買って帰ろうと思うんだけど、何がいい?」
「パッと思いつかないな。いいや、お腹空いたら自分で買いに行くし」
「そう?わかった。もう少ししたら帰るね」
「うん。気をつけてね」
さて、どうしようか。
そうだ、近くの弁当屋が今月は鶏の甘酢あんかけ弁当を売り出しているはず。それにしよう。
***
午後10時40分。
「ねえねえ、食後のデザート食べたくない?」
「何か買ってきてあるの?」
「じゃーん!この前気になるねって話してたチーズケーキです!」
「いいね。何か淹れるよ。コーヒーと紅茶どっちがいい?」
「紅茶にする。ノンカフェインのってまだあったっけ」
「あるよ。それにする?」
「うん。ありがとう」
「おいしいね」
「おいしいね」
「チーズケーキはやっぱりこのくらいしっかり焼いてあるのが好きだなあ」
「俺も結衣と付き合うようになってから、ベイクドチーズケーキの方が好きになった」
「ふふ。ずっと一緒にいると似てくるって言うけどあながち間違ってないかもね」
「そうだね」
「そうしたらもっともーっと似てくるね」
「うん。そうだね」
***
「私明日早いから今日は寝るね」
「わかった。俺ももう少ししたら行く」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
***
今日もありがとう。やっぱり君には敵わないよ。
***
水曜日。
***
午前5時。
嫌な予感がする。
下腹部に鈍い痛みを感じ、のそのそと、ゾウくらい重たい足取りでトイレへ向かう。
はい!今月もやって参りました血祭りわっしょい!!
脳内で声高らかな実況が流れる。
手早く体制を整えて寝床に戻ろうとすると夫が起きていた。
「早いね。顔色悪いけど大丈夫?」
「大丈夫じゃない。お月様が降りてきた」
「ああ…。何かできることあったら言って」
「うん。ありがとう。何かあったら言う。とりあえずもう1回寝る」
夫の返答を待たずに寝室へ行き布団に潜った。
つい先ほどの自分のとげとげしい声がこだまする。
ただでさえ可愛げなんて持ち合わせていないのにどうする。
おまけに今すぐ謝罪することすらできない。
ひたすら自分を責めることしかできなかった。
***
午前11時。
妻からメッセージだ。
『ごめん、調子悪いから今日晩ごはん作れなくていい?』
続いてもう1件。
『私仕事おわったら実家寄って食べてこようと思って』
表情も声色も分かるから、やっぱり会って話すのが1番いいね。
そう言っていた彼女が、話せる距離にいるのに、わざわざ文字で伝えてきたのだから相当調子が悪いのだろう。
甘えたがりなくせに甘えるのが下手くそな典型的な長女気質。
前に甘えている自分に違和感を覚えて気持ち悪くなると話していた。
夫としてはたくさん頼ってほしいものだが、彼女が自分で精神衛生を保てるのならそれでいいと思っている。
『うん。わかったよ。お義母さんとお義父さんによろしく伝えておいて』
すぐに既読がついた。
『ごめんね、ありがとう』
ここで謝罪だけでなく、感謝もセットにして伝えられるところが彼女の素敵なところのひとつだ。
***
午後7時。
今日は何も上手くいかない。
負のオーラが出てしまっていたみたいで上司には心配されるし、普段なら切り替えられるであろう思考が止まらない。
下腹部も腰もずきずきと痛んでいる。共鳴しているのか心までずきずき痛むのだからもうどうしようもない。
夫に終業の連絡をし、母に今から向かう旨を伝えた。
「ただいま…」
今にも消え去ってしまいそうなくらいか細い声はきっと誰にも届かない。
リビングに続く扉を開けると、懐かしい実家の色と匂いがあった。
「おかえり」
キッチンに立つ母と目が合った。思わず目が潤む。
「ただいま。ごめんね急に」
「ママは大丈夫だけど、悠介さんは大丈夫なの?」
「うん。ママとパパによろしく伝えておいてって」
「そう」
母はそれ以上何も言わず料理に戻った。
トントントン
父と猫が下りてきた。
「おう」
「うん」
猫は3日も離れていると3年ぶりのように感じるらしい。
そろりそろりと警戒心丸出しで近づいてきて私の足元を嗅いでいる。
「ごはんできたよー」
母の号令で食卓につく。
我が家は両親と3つ下の弟と私、そして猫、4人と1匹家族だ。
弟の渚はまだ学校らしい。ほんの少し前に帰ってきたはずなのに、こうしているのは随分久しぶりのように感じる。
夕食は肉飯もどきと呼ばれる丼とほうれん草のおひたし、なめこのおみそ汁だった。私の大好きななめこのおみそ汁。
母は昔から私が落ち込んでいると、そっと何も言わず作ってくれるのだ。
今度は堪えられなくて涙が流れた。
***
午後9時。
職場の同僚とオンラインゲームをしていたが、早々に飽きてしまった。
1人には慣れているし、ある程度は妻とは関係のないコミュニティでの繋がりも大事だと思っているが、やっぱり少し物足りない。
明日は一緒に何かできるといいなと考えていたら玄関の方で音がした。
「おかえり」
「ただいま」
今朝よりは顔色が良くなっている。よかった。
話題や聞きたいことはあるが、こういうときは喋り出すのを待った方がいい。
言いたくないことは言いたくない、きちんとNOと言える人なのは分かっているが、それでも調子がよくない彼女にかかる負担は少しでも減らしておきたい。
何か言おうとしているのだろう。口を開けては閉じ、また開けては閉じを繰り返している。その様子が餌を待つ魚に見えた。随分と可愛らしい魚だなと少し和んだ。
***
午後10時20分。
「今日、ごめんね」
「大丈夫だよ。何も困ってない」
「そっか」
「うん。調子悪いのにちゃんと言葉で教えてくれてありがとう」
「ううん。私もありがとう」
「今日もおつかれ様」
「全然だよ。今日だめだめだったし」
「結衣は人一倍頑張り屋だから自分で肯定できないだけで、十分、十分すぎるくらい頑張ってるんだよ。だからおつかれ様、で合ってる」
「…うん。ごめんね、ありがとう」
「どういたしまして。この前買ったハーゲンダッツ、まだ食べてないんじゃない?ご褒美に食べない?」
「悠介もおつかれ様だから一緒に食べるなら食べる」
「うん。食べよう」
***
「今日は本当にありがとう」
「どういたしまして。そうやってきちんとお礼が言える結衣だからなんにも苦じゃないよ。俺こそありがとう」
「なんてできた人間なんだ君は」
「あなたも負けていませんよ?」
***
あなたとともに生きられて幸せです。
これからもよろしくね、素敵な旦那さま。
***
木曜日。
***
午前8時。
昨日に引き続き早く目が覚めた。
うん、なんだか昨日よりも身体が軽い気がする。
ふと隣に目をやると、もにゅもにゅ言いながら気持ちよさそうに眠っている夫の姿があった。
おはよう、と心の中で呟き、キッチンへ向かった。
せっかく早起きできて調子もいいのだ。昨日のお礼も兼ねて多めに家事を担当しよう。
いつも通り温かい紅茶を淹れて、キッチンの掃除を始めた。
***
午前9時30分。
なんだか今日はよく眠れた気がする。
布団の中で小さく伸びをして寝返りを打つと妻の姿がなかった。
よくよく耳をすませば、扉の向こうから鼻歌が聞こえる。妻の大好きなシンガーソングライターの曲だ。
扉を開けると、水色のエプロンをつけた彼女がいた。
「あ、ごめん。起こした?」
「ううん大丈夫。よく眠れた」
「お腹空いたから朝ごはん用意してるんだけど、悠介も食べる?」
「せっかくだし、いただこうかな」
「うん。もうすぐできるよ」
分かったと返事をして、洗面所へ向かった。
***
午後1時。
洗濯物も終わった。ベランダの掃除もした。軽くつまめるようにおにぎりも握った。よし、仕事も頑張ろう。
外はいい天気だった。この様子だと2週間もすれば桜が咲くだろう。
近くに桜並木が綺麗に見える公園がある。缶チューハイでも片手に夜桜を見に行きたいなあなんて考えていたら、あっという間に職場の最寄り駅に着いた。
***
午後5時40分。
仕事が粗方片づいた。
今朝のたまごやきのおかげか、昼のおにぎりのおかげか、今日はものすごくはかどった。
彼女のことだ、きっと昨日のことに感謝と少しの負い目を感じて、俺に何かお返ししたいと思ってくれての行動だろう。月曜日の俺みたいに。
ブブッ
携帯が短く震えた。
『仕事おわったー!』
『今日はがんばれた!!!』
びっくりマークの多さからテンションの高さが窺える。おまけに脳内での再生も完璧な自分に苦笑してしまった。
『おつかれ様。気をつけて帰ってきてね』
さて残りの仕事もパパっと片づけてしまうか。
***
午後7時30分。
2人ともお風呂を済ませ、一緒に食卓を囲む。
「「いただきます」」
今日の献立は炊き込みごはん、きゅうりの漬物、チキン南蛮、焼いたかぼちゃとたまねぎ、そしてわかめのおみそ汁。
仕事の話や週末の話をしながら食事を楽しんだ。
さて、
「やりますか」
各々飲みたいお酒と、つまめるお菓子をトレイに乗せ、趣味部屋へ。
乾杯してふた口ほど飲み、オンラインゲームを起動する。
少し大袈裟な稼働音が鳴り響く中、2人揃ってボイスチャットに参加した。
「おつかれ様でーす」
「ういす」
「おつかれ~」
他愛もない話をしながら物資を漁って、敵と遭遇したら戦う。
「左もいるよ」
「了解。ちょっと回復させて」
「目の前の結構削ってるよ」
いつものメンバー、いつものキャラクター、いつもの連携。
こうやって一緒に遊べるのもうれしいし、2人一緒に受け入れてもらえるのもうれしい。
楽しい時間が過ぎるのはあっという間だ。
みんながよく活躍できた1戦を最後におしまいにした。
「楽しかったね」
「ね、楽しかった」
「さて片づけて寝ますか」
「そうですね」
***
「すごい充実した1日だった」
「よかったね。最後の熱かったね」
「ね!また近いうちに遊びたい」
「楽しみだね」
***
今日もありがとう。また明日。
***
金曜日。
***
午前8時。
目が覚めた。
隣に目をやると妻がすーすーと寝息を立てて眠っている。
…と思えばこちらを向いて、わざわざ腕を組んでひと言。
「それはないでしょう」
ん?怒られてる?俺。
困惑していると、おそらく夢の中の誰かが謝罪したのだろう、低い声で「うん」と言い、また穏やかな寝息を立て始めた。
どんな夢を見ているんだろう。怖い夢でないといいなあ。まああんなに高圧的な声のトーンを出せるのだから、きっと夢の中でも妻に頭が上がらない人がいるんだろう。
***
午前11時42分。
小腹がすいたので席を立った。
ついでにそーっと向かいの部屋を覗き見ると、妻はまだすーすーと単調な寝息を立てて眠っていた。
どうか穏やかな夢を見られていますように。
***
午後1時37分。
うーん…よく眠った。
なんだか夢を見ていた気がする。
懐かしい夢。
そうだ、夫と出会ったばかりの頃。
私が彼のいる会社に中途入社したくらいの頃。
当時の夫――笹原先輩――は仕事は的確で早いし、私たち後輩からも信頼の厚い人だった。
人を意図せず観察して分析してしまう癖がある私は、なんだか変だなと思った。だって変なんだもん。
明らかに義理だと分かるチョコレートでさえ受け取れない人。過度に人と仕事以外で関わるのを避けているように見えた。
雨のある日、先輩がピンヒールを履いて、スラッと背の高い女性といるのを見かけた。
見てはいけないものを見たような気持ちになって、足早に通り過ぎたが一瞬会話が聞こえてしまった。
内容までは覚えていないものの、やけに高圧的な女性の声だけが耳に残った。
それからほどなくして、先輩は別れたらしい。というのも、私は私で辞職に伴ったあれこれで忙しかったので、別れたと聞いたのも結構経ったあとだった。
***
午後4時。
思う存分お布団を満喫した私は、大きな伸びをして、コーヒーを2つ用意して向かいの扉をノックした。
「はーい」
「お砂糖1つ、ミルクも1つのコーヒーはいかがですか?」
「ありがとう。いただきます」
「私も少し仕事の準備とか書き物とかしていていいかな」
「もちろん」
コーヒーを置き、資料やパソコンとにらめっこをしながら仕事の準備をする。
チラッと夫の様子をうかがい見ると、こちらもまた真剣な面持ちで仕事を頑張っていた。
よし、私も頑張るぞ。
「ふぅ…」
「お、そっちもひと段落ついた?」
「はい。そちらは?」
「無事、本日の業務終了いたしました!」
「おつかれ様です」
深々と頭を下げてみせる。
「結衣も、おつかれ様です」
彼もまた深々と―――
「さて、ごはん作りますか」
***
午後6時20分。
「ねえねえ、今日はこれ作ってみない?」
某料理系YouTuderの動画をスクショしたものを見せた。
「いいね、じゃあ俺はこの副菜作るわ」
「副菜隊長ね。そしたら私は主菜・汁物隊長する!」
私の大きな独り言に相槌を打ってくれる夫。
うん、やっぱり夫婦っていいな。
いや彼だからいいのか。
お互いの導線を邪魔しないように器用にくるくる回ったりしながら、無事に夕食が完成した。
***
午後10時。
「私、明日早いからもう寝るね」
「ん、俺も行く」
「え、明日休みでしょう?ゲームとかしててもいいのに」
「妻の睡眠を見守るのも隊員の役目ですから」
「なにそれ」
「いいから。ほら布団入りな?」
「はあい」
「羊でも数えようか」
「いらなーい」
「寝る前の結衣、ちょっと子どもっぽいよね」
「そうかな?普段から大して大人じゃないよ」
「そんなことないでしょ。結衣はちゃんとした大人」
「ふふ、ありがとう」
***
「おやすみ、良い夢を」
***
土曜日。
***
午前7時。
いつもよりは控えめな音量で携帯電話が朝を告げる。
なんだかよく眠れた気がする。
いつも通りSNSの巡回を終え、布団から出ようとすると夫がもぞもぞ動き出した。
「んん…おはよ」
「おはよ。ごめん起こした?早いからまだ寝られるよ」
「大丈夫。もともと起きようと思ってたから」
「そうなの?」
休みの日なのに朝から活動しようなんてすごいな。
私じゃ考えられない。
2人でリビングに移動して、私は化粧道具を引っぱり出してきて準備を開始する。
夫は後ろのソファで何かしているようだ。
YouTubeを流しながら化粧をする。
うん、嫌いじゃない、この時間。
黙々と化粧を進めていると夫は立ち上がりキッチンへ向かった。
***
午前8時。
さて、やるか。
今日はこのために早起きしたんだ。
ごはんは昨日のうちに予約していたからもう炊けている。
棚から彼女の弁当箱を取り出した。
「なんかいい匂いする~!」
リビングから彼女の無邪気な声が聞こえる。
「もうすぐできるよ」
実はここ数日間練習していた。彼女には言わないけれど。
「「いただきます」」
うん、我ながらよくできた。
ごはんとふわふわのオムレツ、あとはカリカリのベーコン。
ふわふわに仕上げるのが難しかったんだ。
ちらりと彼女の顔を盗み見ると満足そうな顔、何かを噛みしめている顔をしていた。
よかった。
「お弁当もできてるからね」
「!?」
食事に夢中だった彼女が目を見開いてこちらを見ている。
そして箸を置いて右手を差し出してきた。
よくわからないけど、同じく右手を差し出すと固く握手された。
そして、咀嚼が終わった彼女がひと言。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
そこにあるのは俺のだいすきな彼女の満面の笑みだった。
***
午後1時。
仕事がひと段落した。
ロッカールームからお弁当を持ってくる。
土曜日は比較的忙しい日で、お昼休憩がある日。
上司と机を並べて、一緒にお昼ごはんを食べる。
上司と言ってもそれは仕事中のみで、それ以外は少し歳の離れた女友だちのような存在だ。
こうやって話しながらお昼ごはんを食べる時間が結構すきだったりする。
さて、夫が作ってくれたお弁当はどんなだろうか。
わくわくしながらお弁当箱を開けた。
「あれ、結衣ちゃんのお弁当いつもと感じ違うね?」
「そうなんです。今日は夫が作ってくれて」
「いい旦那さんじゃん。それで今日ご機嫌だったわけね」
バレてる。そう、私は顔に出やすいのだ。
「まあ…。平井さんの旦那さんもめちゃくちゃ優しいじゃないですか」
そんな話をしながらお弁当を食べる。
少し茶色が目立つお弁当ではあるけど、茶色いものは大抵おいしい。
夫の思いやりを嚙みしめながら食べる。
うん、いつもよりおいしい。この後も頑張れそうだ。
***
午後11時。
「今日は本当にありがとう!朝ごはんもお弁当もおいしかったし、何より私のこと思ってくれる悠介の気持ちがうれしかったよ」
「どういたしまして。そんなの俺だってそうだよ。毎日、結衣の気遣いに助けられてる」
「相思相愛ってこと?」
「ことかもですねえ」
「俺、何気に土曜日すきなんだよね」
「どうして?」
「結衣がいつも以上にたくさん話してくれるから」
「私いつもめちゃくちゃ喋ってるよ?」
「結衣、うれしかったことでも悲しかったことでもなんでも話してくれるでしょ?土曜日は特にボリューミーだからさ、それがうれしいんだよね」
「ほう」
「今日忙しかったんだから明日はゆっくり寝な?」
「うん。アラームなしで寝る!」
「それがいいね」
「おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
***
私が私らしくいられるのはあなたのおかげなんだよ。ありがとう。
***
日曜日。
***
午前8時。
ぱちっと、すっきり目が覚めた。
そのままうつ伏せになって、猫のように伸びをする。
背中側から何やら不穏な音が聞こえたが気にしない。
「まだ20代なんだけどな…」
今日は1週間で唯一夫と休日が重なる日。
大体近くのスーパーに買い出しに行って、各々好きなことをして過ごして、リビングで映画を観たり何かを共有する。
今日も例によって買い出しに行く予定だ。
冷蔵庫の中や調味料の減り具合、ティッシュやトイレットペーパーといった日用品が足りているかを確認して、裏紙にメモしていく。
こういうところ、アナログ人間だなあとしみじみ思うけど、文字を書くのが好きな私にはちょうどいい。
そうこうしていたら夫が起きてきた。
寝起きから割としゃきっとしている彼には珍しく、寝ぼけ眼をこすっている。
「おはよう」
「おはよう」
「早いね」
「うんすっきり起きられたから買い出しメモ作ってる」
「ありがとう。そう言えばメール来てたよ。例のアレ今日届くって」
「なんですと。なら今日の晩ごはんは決まりですねえ」
「ですねえ」
それならば、とまたメモに食材を追加した。
***
午前10時45分。
目的のスーパーに到着した。
携帯で写真に撮ったメモを見ながら次々カゴにいれていく妻と、後ろでカートを押す俺。
メモはわざわざ手書きで書くのにこういうところはデジタルなんて、少し矛盾を感じるがそんなちぐはぐなところもいい。
「ねえねえ!アボカド安くない?」
「たしかに」
「今日の副菜はアボカドの刺身にしよっか。わさび醤油かごま油かどっちがいい?」
「どっちもという手も」
「ありです!」
親指を立ててぐっとサインを送る。
そう言えば。
ぴょこぴょこ歩く彼女の後ろ姿に投げかけた。
「それ、この前買った服?」
「お!気づいてくれた!」
マスクで口元は隠されていても、向けられているそれは満面の笑みであるということが分かる。
「スーパーだし張り切りすぎかなあとも思ったんだけど、お天気もいいしせっかくだから着たくなっちゃった」
「うん。可愛い。似合ってる」
照れくさそうにえへへと笑うと、また次の品を見つけたようで、とてとて小走りで陳列棚に近づいていった。
我ながら素直になったなと感慨深くなる。
それもこれも妻のおかげ。彼女と出会えて夫婦になれてよかった。
***
午後1時。
せっかくだからサンドイッチとか買ってお花見がてらピクニックしない?という、素敵な提案を受け私たちは今近所の公園に来ている。
ちょうどいいベンチに腰を掛けて、サンドイッチを食べた。
私はヒレカツサンド、彼はハムたまごサンド。
桜は満開ではなかったが、誇らしげに咲く花と、これからだぞと意気込む蕾たち。
うん、こういうのもいい。
川がお日様に当たってきらきらと輝いていた。
「春だなあ」
「春だね」
「私、花粉がなかったら春が1番好き」
「なんで?」
「花たちが楽しそうに咲いて、それを見る人たちもうれしそうで。ぽかぽか温かくてなんだか幸せな気持ちになるじゃない」
「いいね。あと、結衣の誕生日もあるじゃん」
「たしかに。そう思うと我が家は春生まればかりなんだよなあ」
「ああ、渚くんから連絡来てたよ。誕生日のお祝いありがとうございますって」
「ちゃんとお礼が言えてえらい!さすが私の弟だ」
顔を見合わせて2人で笑った。
ほらね、こんなにも幸せな気持ちになれる。
桜たちもそよそよと揺れている。
***
午後5時。
買い物とピクニックから帰宅したあとは、各々好きなことをして過ごした。
私は買ってきたものを片づけてリビングのソファでごろごろ。
彼はお部屋で何かしている。
同じ家にいても、つかず離れずの距離感でいられるのが心地いい。
お互い何かあったら言ってくるだろうという安心感があるから成り立っているんだと思う。
いいなあこういうの。
私は昔から、それこそ学生の頃から結婚願望が強くて、年上の男性と付き合うようになってからは更に加速した。
毎度毎度この人と結婚するかもしれないと思ってお付き合いをするし、あーだこーだ想像してみたりしていた。
夫と出会った頃にも恋人がいた。今思えば大分ぞんざいに扱われていたけど、それでも好きな人で私は一生懸命だった。
そんな彼とも別れて、彼氏なんていらない!私は私のために時間もお金も気持ちも使う!と豪語していた矢先に告白をされてしまった。
されてしまったなんて言い方は失礼かもしれないけど、想定外のことで余裕もなかった私からすると、されてしまった、は適切な表現だ。
「結衣」
「ああごめん。回想の世界に旅立ってしまっていた」
「うん?」
「こっちの話。もうこんな時間かそろそろ晩ごはん用意しよっか」
***
午後7時。
「「いただきます!」」
今晩はすき焼きだ。
野菜もたっぷり、お肉もたっぷり。もちろん溶きたまごも忘れない。
2人で口いっぱいに頬張って食べる。
「んん…しあわせぇ…」
今にもとろけてしまいそうな表情で幸せを噛みしめる妻。
でも手は止めず、ごはんを頬張り、また噛みしめて今度は白菜を放り込んでほくほく熱そうにしている。
「今月はお肉にして正解だったね」
我が家には月に一度、会議がある。
そこで今月のご褒美を決めるのだ。
漫画やゲーム機の月もあったし、旅行やちょっといいお肉、お酒の月もある。
「めちゃくちゃおいしいね」
「しあわせです」
幸せそうな君を見られて俺もしあわせです、とはさすがにキザが過ぎるから言えないけど。
こうやって他愛もない話をしながら、好きな人、愛する妻とおいしいものを食べる。
こんな生活を幸せと言わずになんと言う。
感謝を忘れず、当たり前だなんて過信せずに、これからも守っていく。
***
午後10時30分。
「今日もうれしいことたくさんあったなあ」
「お出かけできて、桜も見られて、おいしいおいしいごはんを食べられて」
「きっと幸せってこういうことだよね」
「俺も毎日楽しいよ」
「感情の共有ができる日々がこんなにも幸せだなんて」
「教えてくれてありがとう」
「こうやって手を伸ばせば抱きしめられる距離に君がいる」
「そんなことを真面目な顔して言えちゃうあなたがいて?」
「やめてよ。恥ずかしくなる」
「ふふ、いつもありがとう。素敵な私の旦那さま」
「こちらこそ。愛してるよ」
「今日はこのあとどうする?」
「映画かゲームか一緒にだらだらするか?」
「いいね、どれにしようか」
***
これが私たち夫婦の生活。
かけがえのない日常。
***
おしまい
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