私は、コーヒーが飲めない。
「ただいま…」
薄暗い玄関にか細い声が響く。
電気のスイッチへ手を伸ばした。
暖かい光が自分を称えてくれる。
「今日も社会の歯車よく頑張ったね!」とでも言っているのだろうか。
1日共に頑張ってくれたストッキングを脱ぎ捨て、洗濯カゴがあるであろう方面へ放り投げた。
ひとり暮らしを始めたばかりの頃は、このカゴが満杯になる前に洗濯機を回そうなんて思っていたっけ。
いつ雪崩が起きてもおかしくない洗濯物を薄目に見ながら、心の中で謝罪した。
ごめんよ、下の方に収まっている子たち。君たち今頃ぺしゃんこなんだろうな。ごめんよ。
買い物袋から赤いラベルの発泡酒を取り出し、足早にベランダへ向かった。
せっかく南向きの部屋に住んでいるのに1日中閉めっぱなしの遮光カーテンをすり抜け、たどり着いたそこは私だけのオアシス。
小さなテーブルと脚の長い椅子、そしておそらく車用の灰皿が完備されている。
器用に椅子の上で体育座りをして、煙草に火をつける。
歯車が回る音がどうも安っぽいがそんなことは気にしない。
湿度を含んだ生ぬるい風が髪を撫でた。
発泡酒の淡い炭酸と、脳に巡り回るニコチンを感じながら、ぽつぽつと灯っている明かりを見つめる。
燃焼材が燃える音、元気なバイクの音、誰かが誰かを呼んでいる声。
自分がここに居て、人々が周囲に居る。
この時間で少し養分を吸収するのが最近は日課になりつつある。
部屋に戻ると、人工的な風が髪を撫でた。
「いい加減鬱陶しいな、この髪も」
元カレが好きだと言う芸能人は皆ロングヘアだった。
手入れは大変だが、時間がない朝は助かっていた。
アイロンもワックスも必要ない。くるくるとまとめて上げて小洒落たクリップで留めてしまえばいい。
どうせなら大失恋をしてから切ってしまおう。そう思ってほったらかしにしていた。
小洒落ていないクリップで髪をまとめて、キッチンへと向かった。
「今夜私がいただくのは」
コンビニエンスなストアで買った塩カルビ弁当です。
もち麦入りごはんと表記されていると少し罪悪感が薄れる。
もち麦ごはんではなく、もち麦"入り"ごはんなのに。
一丁前にふた口もあるコンロに乱雑に置かれた、食べ物なのかゴミなのか区別できないものが積まれているゾーンを極力視界に入れないようにして、弁当を電子レンジに突っ込んだ。
上手く回らない下皿ももう気にならない。温まったらいいんだ。混ぜたら熱も伝わる。
せっかくFrancfrancで揃えた食器も、3.5合も炊ける炊飯器も、しばらく日の目を浴びることはないだろう。
自己嫌悪に陥りそうになったが、電子レンジの軽快なメロディが遮ってくれた。
テーブルに弁当を置き、丁寧にシワを伸ばしたビーズクッションに身を預けた。
晩ごはんのお供を探すべく、動画配信サービスを行ったり来たりするが、結局何度も観たことのある短編ドラマを再生していた。
観るというよりも聴くに近いため、今期のドラマだとごはんのお供にはなれない。これでいいのだ。
部屋着に着替え、寝落ちする可能性を考慮し化粧も落とした。
本日のミッションはほとんど完了したと言っても過言ではない。
私は布団へ飛び込む許可を明日の私から得たのだ。
照明を常夜灯に切り替え、枕もとの間接照明をつけた。
流れ続けているドラマを聴きながら、ひたすらブルーライトを浴びる。
この時間、空間が私はとても好きだ。
何をするわけでもなく、ただ気分に任せてふわふわと漂う。
鈍色の湖にゆっくりと沈んでいくようで心地いい。
濁っていたって案外呼吸はできるものだ。
抱き枕を脚に挟み、少しずつやって来る眠気に意識を手放した。
救急車のサイレンで目が覚めた。時刻は深夜1時38分。脳みそを起こさないように、半目で枕もとを探る。そのまま水色のアイコンをタップして、上から4番目の彼を呼び出した。
5コール鳴らしても出なかったら切る。1、2、3、4…――
「…はい」
気怠そうな声が聞こえた。
「寝てた?」
「作業してました」
「そっか」
ノイズとキーボードを叩く音に耳を傾ける。
私は心の中で彼を睡眠導入剤と呼んでいる。
無駄な話はしないし、余計な詮索もしてこない。楽だ。
人に等しく興味がないんだろう。
ぽつりぽつりと話して、気がついたらまた眠りについていた。
――ノイズが途切れた。
「優太くん?」
返事がない。
「ただの屍のようだ」
寝起きの声はいつも以上にかすれていて、膨らみきらなかった風船みたいに惨めだ。
常夜灯の小さな明かりも、心なしか寂しそうに見える。
睡眠導入剤がなんだ。私はいい大人。ひとりでも寝られる。
寝床を整え、再び布団に潜る。
見たい夢を想像しても、羊を数えても眠気はやって来なかった。
何も気配を感じない部屋。当たり前のはずなのに、ひとりでいることが日常なはずなのに、自分は独りなのだと嫌というほど思い知らされている気分になって、なんともいえない焦燥感が胸に広がる。
こういうときに決まって思い出すのは過去の男たちのことだ。
あの人とはこれが原因で別れた。ああ、こんなことがなければ今もまだ一緒にいたのかな。あのときもう少し我慢できていれば…。
"今"決して存在しない、たらればでしかない無駄な空想。
もはや言葉にもなっていない、単語の羅列が目まぐるしく流れている。
そして時折、しっかりと形を成した言葉が大げさな効果音と共に顔を出してくるのだ。
どうにかして食い止めねば。
もはや強迫観念に近い何かを感じていた。
何か温かいものを飲もうと思い、携帯電話を手に取る。
いや、待てよ?
おそらく彼は画面の前にいない。そして、離席を告げるチャットは見当たらない。
つまり、彼は私が寝ていて起きないだろうと踏んで、もし起きたときのことを考えずに、起きたときにそこに在った物事が失くなっている心境を考えずに、席を立ったわけですね?
大して親しくもないはずの彼を問い詰める脳内の声は、よくある刑事ドラマで検察官が被告人に質問をするそれだった。
それでも、小さい頃から大人たちが事あるごとに口にしていた言葉が過り、同じことはできないのだから、私は良心的な人間だ。
思い返してみると、損することも多かったが、悪意に身を委ねることはできなかった。私は、そんな私を気に入っている。
気づけば脳内を駆け巡る思考は落ち着いていた。
先ほどよりも呼吸がしやすい。
カタッ、
物音がした。我が家からではない。
「優太くん?」
「はい。…起きてたんですね」
「どこ行ってたの?」
「煙草を吸いにベランダ出てた」
「優太くん、煙草吸ってたんだ…」
急に芽生える親近感。思わず聞いてしまった。
「何吸ってるの?」
「え?」
優太くんは素っ頓狂な声を上げる。
「銘柄。何吸ってるの?」
「…アメスピ」
「へぇ、若いのに渋いの吸ってるのね」
「……あなたも煙草吸うんですか」
この子が興味を示すのは初めてかもしれない。少しうれしい。
「うん。私はマルボロ一筋」
「へぇ…」
「煙草の話してると、煙草吸いたくなっちゃうよね」
「よく言いますよね」
「私も煙草吸ってこようっと」
携帯電話は枕もとに置いたまま、キッチンへ向かう。
少し接触が悪くなっている換気扇のボタンを押すと、カタカタゴウゴウと大げさな合図と共に仕事を始めてくれた。
いつも通りの動作をゆっくりと行い、煙を肺に浸透させる。
思っていたよりも時間は経っていなかったようだ。
孤独は嫌だけど、私の周りには人々の生活があって、遠くて細いものであっても繋がっている。
「なんだ、私まだ大丈夫じゃん」
換気扇にかき消されて、誰にも届いていないだろうが、明日の私に届けばいいな。
ふと頭を流れるメロディを口ずさむ。
今度の風船は、堂々と気持ちよさそうに踊っているだろう。
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