茶色のピアノ

母は、もしも自分に子供ができたら、ピアノを習わせると決めていたらしい。

それは、母自身が幼い頃ピアノを習いたかったが、叶わなかったためだそう。
代わりにオルガンを習っていたらしい。

そんなわけで、3歳より、駅の近くにあったヤマハ3才児ランドに通った。

4才から、近所のピアノの先生に教えていただくこととなった。
そこからわたしのピアノ人生が始まった。

それにともない、家にピアノを置くこととなった。
このピアノの色で嫁姑戦争がすでに勃発していたらしいが、頑固な母に軍配が上がる。(祖母は黒派)

かわいらしい茶色のピアノが、クレーンでつるされ、2階の子供部屋にやってきた。
「天井がぬける!!」と祖母は心配していたらしいが、現在までなんとかもちこたえている。

その後、先生の引っ越しにともない、隣駅の先生に師事。
中学まで習った。

学生時代は、合唱コンクール、入学式、卒業式など、なにかとピアノに触れる機会に恵まれ、なんとなく鍵盤にはさわっていた。

大学時代には、ピアノサークルに入った。
「みんなでピアノ弾くの?」とよくきかれるが、「お金を出しあってホールを借りて発表会をする」がいちばんしっくりくる。

サークルに集まった学生は、コンクール入賞、お母さんがピアノの先生、音大と迷って普通の大学に入学した、妹が音大生など、家に音楽があふれていたであろう家庭で育った人間がわりと多く、適当に続けていたわたしにとっては衝撃だった。

家を出たいま、近くにピアノがない。
実家に帰ればいつでも弾けるのであるが、なかなか頻繁には弾けていない。

思い返せば、ピアノはいつもわたしに機会をくれた。
ピアノを習っていたから、ピアノを弾く機会が与えられ、そこから他人に認知されたり、交遊が広がったこともあった。

学生時代、吹奏楽部にも入っていたが、まったく向いていなかった。
音を読んだりリズムをつかむことはできるのであるが、皆でいろんなことを「合わせる」ことがどうしても苦手であった。
団体が苦手なのである。

ひとりで完結するピアノの方が、わたしには向いていた。

結局、母の念願叶い、弟2人もピアノを習い、いまでも休みの日になると弾いている。

わたしの披露宴で、弟2人に連弾をさせた時には、両親はたいそううれしそうであった。

次は、上の弟の披露宴で下の弟と連弾をするように頼まれたので、ちょうどよさそうな曲をさがしている。

(お相手もさがし中)

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